あの日、祖母は広島にいた。
彼女は山口県の小さな島で生まれた。裕福な家だったと聞く。7人兄弟の下から2番目で、親からはもちろん、歳の離れた兄や姉からかなり可愛がられて育ったらしい。
そのせいかは知らないが、亡くなるまでわがままな性格だった。それでいて可愛いおばあさんとして近所でも割と好かれていた。私も祖母のことは好きだった。
祖母がまだ3歳か4歳の頃、彼女の母親が亡くなった。本人によると、葬式の日のことはうっすらとだけ記憶していたという。樽のような形の棺桶に座らされた母親の亡骸に、すぐ上の兄と一緒に笑顔で「ねえ、おかーあさんっ」と遊ぶように声をかけたのだという。「母の死をよく理解していない幼い私たちを見て、周りの大人はかわいそうに思って泣いていたらしい」と本人は言っていたが、祖母はどちらかと言うと自分を悲劇のヒロインに見立てたがるところがあったから、実際のところは分からない。
やがて彼女の父は再婚した。この辺りから、祖母の苦労が始まる。まず、しばらくして祖母は子供のない親戚夫婦に養子に出される。どういう経緯だったのかはよくわからない。
養子先は台湾だった。その時祖母は小学校高学年の年頃だったと聞く。私の母が聞いた話では、この養母と祖母は反りが合わなかったらしい。しばらくは台湾で暮らしたが、やがて山口に返されたのだという。祖母はずっと「追い返された」という印象を持っていたようだし、実際そうだったのではないかと何となく思う。
ただ、私が子供の頃、祖母は台湾の思い出を楽しそうに語ってくれた。彼女は私の母と叔母と一緒に一度は台湾旅行にも行って楽しんだようだ。悪い思い出にはなっていないようだが、聞いた話をつなぎ合わせるとそれなりに大変だったのではないかと思う。しかしこの辺のことも今となっては分からない。
台湾から山口に帰ってしばらくの後、戦争が始まった。学徒動員で祖母は広島に行くことになる。紡績工場か何かで働いていたそうだ。
原爆投下当日、たしか彼女は工場にいたという話だったと思う。私の記憶では、工場は爆心地からそれほど離れていなかったはずだが、祖母は大きな怪我をすることはなく命も助かった。その点では運が良かったのだろう。しかし、その工場から逃げるときには相当悲惨な光景を目にしたそうだ。死体の山、皮膚がただれた人、手足がない人、目玉の飛び出た人。原爆の本やテレビ番組などで見聞きするものをまさにそのままだ。やはり目に焼き付いていると言っていた。
命は助かったし怪我もしなかったが、被曝はしていた。髪は全て抜け落ちて、寝込むようになった。それから中年になるまで、時々寝込むようになったという。被曝が直接の原因かはわからない。
その後、戦争が終わり、彼女は山口の実家に帰った。
実家に帰ると、髪のないその姿のために、父親と継母からはひどい扱いを受けたのだそうだ。オバケと言われたり、気持ちが悪いからと帽子を常に被らさせられたり、そのほかにもかなりいろいろあったらしい。この話は、私は祖母から直接聞いたのではなく、母から最近になって初めて聞いた。
私が小学生の頃、夏休みの宿題のネタに困ったら、とりあえず祖母に戦争中の話を聞かせてくれとお願いしていた。作文にしても絵にしても、当時の私にとっては確実に「使える」ちょうどよい題材だった。その頃のことを思い出すと、感謝と反省が混ざり合った気持ちになる。
原爆投下当日のことは、当然辛い思い出だったはずだが、嫌がることなく祖母は私に話してくれた。しかし、実家に帰って「オバケ」と言われたというような話は一度も聞いたことがない。たぶんこの話は孫に聞かせられるほど、彼女の中でも消化できなかったのではないかと思う。もし祖母がまだ生きていたとしても、聞けることでもない。
後の祖母は、死ぬまでずっと病気がちだった。若い頃から寝込むことが多かった。夫を早くして亡くしたり、娘を先に亡くしたり、息子とうまく行かなかったりといろいろなことがあったが、それでも楽しい時期もあっただろうと思う。
祖母は数年前に亡くなった。私は離れて暮らしていたから、死ぬまでの数年は滅多に会えなかっし、私と祖母の間にもいろいろあれども大好きな祖母のままである。
祖母のことはよく思い出すが、一番強く思い出すのは8月6日だ。あの日を生きた一人の証人として、また単に大好きだった祖母として、今日もまた思い出したので、こうして残しておくことにした。
んのではないかと僕の母からは聞いたが、これも実際のところはわからない。