コミュニケーション

英語のハノンに3ヶ月取り組んだら、意外にもライティングが伸びた

英語のハノンの初級を2月下旬に購入した。きっかけになったのはある記事を読んだこと。いい内容だったのでまた読みたかったのだが、そのノートはもう消えているようで残念だ。自分よりはこの方の方が英語ができそうだけど、それでもレベルが近そうな気がした。(ちなみにそのノートはこれ。https://note.com/osugisugihara/n/nf213a3465d8c 読めないけど。)

なんとなく直感が働いて、素直に真似てみることにした。結果から言うと直感は大正解で、3ヶ月でこれまでに感じたことのない大幅な実力アップを実感している。

実力の向上はあきらかであり、自分でははっきり体感できるものだが、残念ながら数値化できるものがない。それでも間違いなく幾つかの面で英語力が大きく成長している。

前提として私の英語のハノン挑戦前の英語のレベル感と加えて実践したハノンの難易度や練習内容を書いておく。

ざっくりB2からC1

英語力は、CEFRで言うとB2からC1の間くらいだと思う。2023年に英検準一級を取得。英検バンドは後で確認して記載予定だが、少なくともギリギリ合格ではない。TOEICは長らく受けていないが、10年ほど前の記録が885点。おそらく今はもう少し点が伸びると思う。

また、日常的に英語は使っている。週に数回の英語会議を行なっている。相手の大半はアメリカ人のネイティブスピーカー。ときに中国人やドイツ人などとも話をする。チャットもメールも英語で行う機会が多く、仕事の8割以上は英語で行なっている。

会議の内容にもよるが、相手が言っていることは8割以上は聞き取れている。ただし、聞きなれない言葉が入っていると、おそらく聞き漏らしている。

話すときは時折つっかえながら話す感じ。ネイティブスピーカーのようには流暢には喋れない。内容によってはすらすら言葉が出るが、逆にとぎれとぎれに単語を探しながらなんとか喋る。そういうときは文法もぐちゃぐちゃになってしまう。

英語のレベル感は大体こんな感じ。

では英語のハノンをどのように使ったか。

英語のハノンをこう使った

まず最初に取り組んだのは初級だ。中級から始めてみようかと思ったが、英語上級者であっても初級から始めよというアドバイスに素直に従うことにした。

まずは、流れ通りに初級を一回通してやった。スピードはナチュラルを選択。試しにナチュラルで試したらほとんど聞き取れないことはなし、少なくとも第一部の内容はついていけたので、スロースピードは使わなかった。

そういえば、初回は第一部の文型についてのパートは説明を読まずに進めてしまった。考えてみると、これは別に飛ばさずに読んでおいた方が良いと思い、結局二周目からは読むようにしている。初回で読まなかったのは、とりあえず進めてないと楽しめなさそうだったからで、別に初回は飛ばしたければとばしてもいいかもしれない。

毎日の練習量については時期によって違う。
最初はペース良く進めた。つまり、1日1ドリルとか1ユニットごととかにこだわらず、進められるならどんどん進めた。第一部まででユニット0から5まであるが、たぶん3日ぐらいで終わらせたと記憶している。長くかかるとしんどくなるし、初回でできなかったとしてもどうせ何周もするわけだから構わないと考えて、このような進め方を選んだ。多分正解だったと思う。

第一部よりあとは、基本的には一日1ユニットのペースで進めた。この進め方だと例えばユニット7のように11個もドリルがあってとても辛い日が出てくるが、仕方ない。そういう長いユニットのに当たった日は、単純に頑張ることにした。

このペースで進めると、ユニット5までで3日。のこりが二週間かかる。記録をつけていないのでわからないが、多分こんなペースだっただろうと思う。

続いて二周目に突入。初回はドリルが進める通り、まずは本を見ながら挑戦し、その後で本を見ずにやってみるという方法で練習したが、二周目はテキストは閉じたままで音声のみで進めることにした。

うまくできたユニットは音声のみの一回のみで終了し、次のユニットに進む。だから、1日一ユニットにはこだわらず、できるならどんどん進めた。第一部は1日か2日で終わらせたと思う。ただしそれ以降は、逆に一ユニットしかできなかったケースもある。というのも、テキストなしでは全然歯が立たず、音声のみにトライ(1回目)したあとで、テキストありでトライ(2回目)し、また音声なしに戻ってトライ(3回目)という方法をとったため、一週目よりも逆に時間がかかるケースがあったからだ。

結果として、おそらく二週目を終わらせるのに二週間近くかかったのではないかと思う。

この頃、中級を追加購入して、取り組み始めた。初級の三周目に入りつつ、中級の一周目をスタートさせたのではなかったかと思う。

中級のペースも1日一ユニットを原則ルールに決めた。しかし中級は、序盤のユニットから以上にドリル数の多い場合がある。ユニット1のドリルが9個。ユニット6が7個。中盤のユニット11も9個、ユニット12は15個もある。これらは1日で終わらせるのは無理なので、1日にやるドリルの数を5個前後とした。

初級も後半は難しいが、中級は序盤からずっと難しい。一文が長い上に、男性の喋る速度がとんでもなく速いので、全然ついていけない。

だが、できなくてもよいと半ば諦めて取り組んだところ、それでよかった。初級の二周目の時にすでに感じていたが、1回目でできなくても2回目は少し上達して、言えなかった箇所が簡単に言えるようになっている。きっと中級も同じだろうと見込んでいたが、やはり予想通りで一周目は苦労しても、二周目になるとだいぶん楽になった。

このペースで進めたので、中級も一周あたり大体二週間のペースで勧められた。ちなみにその裏では、初級の三周目を継続して行うことにした。もちろん中級に取り組まなければならないのでペースは落ちるが、せっかくできるようになった初級の文章の定着をはかりたいし、何より中級に取り組むと、あんなにむずかしかった初級が簡単に思えて楽しくなるので、モチベーションアップにつながる。

こうして中級の一周目を終えて、こちらもまた二周目に入ったが、初級の二周目と違うのは、自信がないパートは二周目もテキストありで挑戦したことだ。できればテキストなし音声のみの方が早く進むし楽しいのだが、難しすぎると逆にペースが落ちる。そこで多少のペースダウンを受け入れて、まず音声のみでチャレンジしダメだと思ったらすぐに冒頭に音声を戻してテキストありで挑戦することにした。これが一番精神的な負荷が低いと思った。

そうこうするとまた二週間ぐらいで中級の二周目が終わるので、この頃に上級を購入した。

ただ、上級にちょっとだけ挑戦してみたところでは、序盤からこれまたかなり手強い。苦戦しそうだった。そこで、一旦中級に戻って三周目に挑戦し、加えて初級も継続して行ってきそりょくをたかめたうえで、上級に挑戦することにした。

こんな感じで進めた結果、今は初級の五周目くらいと中級の三周目か四周目かに加えて、上級の一周目の超序盤を並行して進めるじょうたいになっている。これで3ヶ月が経過した状態である。

練習時間は、初級のみの間はいちにち30分程度だったが、中級に調整した頃から少し伸びて45分から1時間くらいになっている。今はゼルダの伝説の新作で忙しいので時間を作るのがしんどいが、それでもだいたいそれくらいの時間は確保できている。

さて、ここまでは私の実施した練習だ。問題はこれを経てどのように英語力の向上を実感したかである。

意外にもライティングが伸びた

まず一番実力の向上を感じたのが、意外なことにライティングだった。上で紹介した記事ではリスニングに効果があったということだったのでそちらに期待していたのだが、全然予想していなかった力が伸びたので自分で驚いた。

しかし、考えてみれば当然だ。喋る言葉を書き留めたものが書き言葉なので、話せるようになれば当然書けるようになるに決まっている。

どの程度楽になったかというと、基本的なメールで書く文章は、全く辞書を使わずに書けるようになった。毎日英語を業務で使ってはいたが、ちょっと込み入った内容になると書くのに時間がかかるので、機密度の高い情報を入れないように注意しながらGoogle翻訳を使用したり、最近では自分で書いたものをChatGPTに添削してもらって整えていたりした。

ところが英語のハノンに取り組んで2ヶ月を超えた頃から、つまり中級を終えた頃からすらすらと英語がかける感覚が出てきて、それからはきほんてきには翻訳マシンを使うことなく全ての英文を気軽に書けるようになっていた。r

楽になったのはメールだけでなく、チャットもだ。実はメールは相手が待っていないので、多少書くのに時間をかけても問題にならない。効率は落ちるが時間をかければなんとか仕上げられる。しかしチャットの場合は、相手が待っているので、あまり長くは待たせられない。(実際は待ってもらってもいいのだけれど、なんとなく早く返したくなる。)

このような場面で、困ることが全くなくなった。以前よりもすらすら文章が出てくる。語彙力はかわっていないはずなのに、突っかかることがない。

これが本当に驚きであり、なにより嬉しかった。期待していなかったライティングが楽になったので、普通に「おおー!」と声がでた。

次に効果を感じたのが、こちらは予想通りにリスニングだった。

会議で元々それなりに聞き取れていたところが、これまでよりもさらに聞きこぼしがなくなってきた。また、聞き取れる部分が増えた結果、逆に自分が聞き取れていない部分がより明確に分かるようになったので、今のところわからなかったんでちょっともう一回言ってもらえますか?というお願いがしやすくなった。

会議以外では、英語の映画やドラマが字幕なしで見られるパートが増えた。残念ながら全く新しいもので、背景も知らないようなものだと厳しいが、過去に見たことがあったり、どんな内容かがわかっているようなものはかなりわかる。

たとえば、NHKで放送されている「ライザのサバ読み大作戦」というコメディドラマがHuluで見られるので、それを試しに見てみたところ、第一回はほとんど理解できたし、第二回冒頭の結構際どいネタもわかったりして、嬉しかった。

ニュース関連は、実はそれほど変化を感じていない。ちょっと不思議だ。会議もドラマや映画も聞きやすくなったのに、なぜか変化を感じない。CNNとBBC、NPRあたりを時々見たり聞いたりするが、だいたいこれまでの聞こえ方と変わらない。もしかするともう少し上達すれば、また変わってくるのかもしれない。

ライティング、リスニングときて、残るはあと二つの技能だが、これまた実はあまり変わった感じがない。

スピーキングは、相変わらず詰まる時は詰まる。もしかすると、スムーズに喋れる時間が長くなったかもしれないが、ライティングの時ほど劇的ではない。あまり変わった感覚がない。

リーディングも同様で、これまでと同じくらいのスピードでしか読めていない。自分の読む速度が速いか遅いか、調べたことがないのでわからないが、多分そんなに遅くはないけれどもすごく早いわけでもないと思うので、これもまた今後の伸びに期待している。

こんなわけで、本当はスピーキングでももっとわかるぐらいの変化があれば良いのだが、それでもライティングにおいて自分としては劇的な変化を感じているので、効果の面でかなり満足している。これからも続ける予定であるし、かなりモチベーションを保てている。

今の時点ではスピーキング力の大幅改善はないが、いずれあがりそうな予感はある。大幅ではないものの、多少喋るのが楽になっているし、期待してよさそうに思う。

最後に英語のハノンを使って練習するときのこつについて、今感じていることを記録しておく。

どんどん進めて、やる気をキープする

まず、一回の練習でそれなりの量を進める方が良いと思う。

著者の方は、1日一ユニットなどにこだわらず、一ドリルでもよい、と仰っているが、ユーザー目線ではそれはちょっとしんどい。単純に1日一ドリルのペースで考えると、初級だけを一周するのに何ヶ月もかかる。もちろん、長い時間がかかってもいいから、毎日の負荷を抑えて進めたいと言う人はそれでよい。しかし、長い時間をかけてやっと一周目が終わって、二周目に入る頃にはやったことをあまりおぼえていないというペースだと、すくなくともわたしはやる気をキープできない。

だから、どうせ一回でマスターすることなどできるわけがない練習なので、完璧を目指さすにどんどん練習を進めることをじゅうししたほうがよいとおもう。一周目でかんぺきにできるようになれるならそれは素晴らしいが、私にはそれは難しいし、多分そう言う人の方が多い。だから、出来にあまり拘らずどんどんすすめて、周回によって最終的に上達すれば良いという発想ですすめるのが良いと思う。

あとは、音声のみでできるのがかっこいいのでテキストなしに挑戦するのはいいと思う一方で、音声のみでは難しいパートはすぐにテキストありに引き返す勇気を持つべきだとおもう。無理なものは無理で、無理をすると辛くなり、いずれ練習ごとやめてしまうことになる。結局継続するのが近道なので、多少の負けは受け入れて前に進んでいくのが良いだろうと思う。

まだ中級を終わらせて、上級に取り掛かったところなので、引き続き継続して練習し、いずれフレーズ篇に取り掛かったころにまた記録しておきたいと思う。

「9割英語が聞き取れる!」と実感するまでにやったこと

アメリカ人と話をしていて、仕事の内容であれば9割聞き取れるようになった。本当は仕事のことなら全部聞き取れたほうがいいんだけれど、完全にすべて聞き取るのはかなり難しい。9割聞き取れれば、仕事上の支障はほぼない。どうしても確認しなければならないことはテキストでやりとりしていれば問題ない。

9割聞き取れるようになったときに、さてどうして急に聞き取れるようになったんだろうかとふと不思議に思った。

英語は長年仕事に使ってきた。しかし、ほぼすべてを英語で行うようにあったのはつい昨年からの話で、それまでは少なければ5%程度、多くても6割程度だった。

その間も英語の勉強は続けていた。単語を覚えたり、ラジオを聴いたり、例文を覚えてみたり、いろいろと試したが、しかし聞き取りはなかなかレベルアップしなかったように感じていた。

それが突然に改善したので、おや?と思った。

この1年とそれまでとを比べてみたとき、一つ思い出したことがあった。プレゼンの準備をするときに自分で録音して聞き、その発音が聞き取りにくいところをすべて発音し直していく、という作業を増やしたのだった。

自分の発音が、いかにも日本人のアクセントで仕事仲間のアメリカ人とは違って聞こえるところがあったら、その単語を繰り返し発音して録音し、ある程度これならいいかなというレベルになるまで練習を行うようにした。

おそらくこれが効果を発揮したんだと思う。過去を振り返ってみて新しい勉強方法や練習方法というとこれぐらいしかない。

この練習で、発音はかなり上達したと思う。ためしにWeblioのスピーキングテストをやってみたところ結果は満点だった。

ちなみに、冷静を装っているが満点が出たのは今回が初めてだったので実は相当喜んでいるのは秘密にしたい。以前は90点〜95点程度になることが多かった。昔の記録をとっていないので前後の比較ができないのが残念だ。

もともとの発音はすごく良いわけではなかったと思う。相手に通じてはいるけれど、聞き返されることも多かった。

いまは聞き返されることはほとんどない。(話している内容をがっつり否定されることはあるが。)

発音がよくなると聞き取れるようになるというが、確かにそうかもしれないと実感した。

共通テスト強制退出の40代受験者について思うこと〜アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

2021年1月17日に行われた共通テストで、マスクから鼻を出していた40代男性の受験者が強制退出させられたというニュースがあった。

“鼻マスク”正さず成績無効 入試センター「総合的に判断」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210118/k10012820481000.html

このニュースで、自分の中の無意識の偏見に気がついた。

このニュースがはじめに流れた時の情報では、受験生の年齢や性別は報道されておらず、単純に「マスクから鼻を出したまま試験を受けていた受験者がいて、その人が数回注意を受けてもそのままでいたために強制的に退出させられた」という内容だった。

この時に僕が感じたのは次の二つ。

まず、「マスクを正しく装着できない事情があったのかもしれないから、強制退出はやりすぎ」ということ。僕もどちらかというと敏感な方で、しかもメガネをつけているから、マスクを鼻まで覆うのは辛いし、しんどいのは共感できる。さらに、この人はもっとどうしようもない事情があって、マスクから鼻を出していたのかもしれない。大切な試験でいくらなんでもかわいそうだと感じた。

その一方で、「とはいえルールはルール。他の受験者のことも考えれば、しかたがない」とも思った。最初の報道の時点で、6回注意したがいうことを聞かなかった、という情報がすでにあった。5回はよくて6回はだめ、ということにはならないが、それでも一般的に考えればそれだけの回数の注意を受けても改善が見られなければ、試験官の注意を無視したという判断になってもおかしくないし、それだけ繰り返せば他の受験者ももめていることには気がついただろうから、単純に迷惑である。

という、二つの感想をもち、そのどちらも大きさは同じくらいで、やりすぎだけどかわいそうだし、判断がつかないなあ、と思っていた。そして心の奥で「この人がどんな人かがわかると、もっと意見をはっきりさせられるんだけどなあ」と思った。

さて、その後の報道で、この受験者がどんな人だったか情報が追加された。

この人は、40代の男性。注意を受けた際に、周囲の邪魔になるような発言をしたり、行為に出たりもしたという。

「周囲の邪魔になる発言や行為」は、強制退出が正しかったかどうかを判断する上で、非常に参考になる情報だ。多くの受験者にとって非常に重要な共通テストで、その人たちに迷惑になるようなことをしたものを試験会場に残しておくのはまずい。なるほど強制退出は正しい、と私は思った。

そしてさらに、「40代の男性」であることが、強制退出が正しい判断であるという考えを後押しした。

この、「40代の男性だから、追い出してよかった」というこの考えこそが、僕自身の無意識の偏見だ。

40代の男性の受験者は、きっと真剣にテストを受けに来た人ではないだろう。いまから大学に入る人もいるだろうが、多くはない。シャレで試験を受けに来た人物だ。もしかすると、初めからこのような問題行動を起こすつもりで受験しに来たのかもしれない。だって、40代の人だ。いまさら大学受験もないだろう。しかも男だし。うん、ありそうな話だ。

・・・恥ずかしながら、僕はこんな風に考えた。

何歳だろうが、大学を受験したっていい。いつだろうが、学ぶ姿勢を持っているのは問題ない。中年を過ぎて初めて大学を受ける人もいるだろうし、あるいは過去に大学を卒業したが再び学びたいと考えて再度大学へ通いたい人もいるだろう。

あるいは、そもそも大学を受けるためにだけ共通テストは存在するわけではないはずだ。これまでのセンター試験だって、自分の学力を試すために受験していた人もいるだろう。いろんな人が受験者には含まれるし、その誰もが真剣に受験していてもなんの不思議もない。

また、問題行動を起こすことと、性別もまた全く関係がない。男性だろうが、女性だろうが、またそのどちらでもなかったりどちらでもあったりしても、それは発言や行為の問題とは無関係だ。

このニュースを通じて、自分の無意識の偏見に気づくことができた。しかしおそらくこれ以外にも自分では気づいていない偏見をたくさん持ってしまっているのだろうと思う。もしかすると、というか多分そうなのだが、この記事の中にもその偏見は含まれてしまっているのだろうし、そしてこれを書いている今の僕はそのことに気がついていない。

松岡修造ネタはデスブログネタと同じタイプのイジメ

「松岡修造がいるところは、気温が上がる」という冗談(としておく)はもうやめにしよう。これはネット上でやっているイジメでしかない。ことが大きくなる前に、ストップすべきだ。

かつてデスノートが流行っていた頃に、「デスブログ」という名でタレントの東原亜希が同じようにいじめられていた。こちらは明確な悪意を持ってネタにされていたので、誰の目にもイジメであると容易にわかったし、だんだん続ける人が減っていった。

一方松岡修造の件は悪意が必ずしも目に見えているわけではなく、むしろその松岡修造の熱っぽさが日本列島にいい意味で熱を連れてくるのだ、というちょっといい話に見せかけながらイジメが行われている点がもしかするとむしろ厄介で問題があると言えるのかもしれないと思う。松岡修造は確かにその暑苦しさで売っている面がある。インタビュー等を見ると当然ながらただの暑苦しい人ではなくて、相当知的であり冷静な人であることは明確だが、おそらくメディアの世界で生き抜いていくには多少のキャラクター付けも必要なのだろう。彼の方でもその熱っぽさをギャグ的に利用しているところは当然ありそうだ。

だからと言って、彼がやってくるところは暑くなる、というネタにし始めるとちょっと様子が変わってくる。

なぜなら暑すぎる場所では、人は病気になるし、場合によっては死んでしまうからだ。ネタにしている人は、松岡修造が誰かを本当に傷つけたわけではないし、誰かを死なせたわけではないということなど当たり前で、間に受けるほうが悪い。そう言うだろう。では当の本人はどうだろうか。もちろん自分のせいではないことは明白だ。しかしそれでもなお、自分がどこかに行くとそれが厄災につながると冗談であったとしても言われることは決していい気持ちがすることではない。最初のうちは冗談と受け取れたとしてもそれがもし今後もずっと続けられるのであるならば、それはだんだん冗談ではなくなってきてやがて自分がどこかに行くことを嫌がる人が出てくるのではと疑い始める可能性だってあるだろう。

松岡修造は、この件でバカにされているわけではない。わかりやすいイジメの構図を見せてもいない。だがわかりにくいというだけで、やはりこれはイジメの一種である。どうしてもやめられない人も出てくるかもしれないが、止められる人から順にストップしていって、受けないネタに徐々に変わって行き最終的には誰も口にしなくなることを祈っている。

飲み会を断るデメリットは?などと悩んでいる弱く繊細なあなたへ

飲み会を断ると人間関係が悪くなるかもしれない。つきあいの悪いやつだと思われるかもしれない。結果として組織の中での居場所がなくなるかもしれない。デメリットがいっぱいありそうだ。

飲み会が苦手なあなたは、飲み会を断ったときのデメリットをきっとこんな風に色々と考えていることだろう。

同時にこんな風にも考えたりしていないだろうか。

本当に飲み会を断っただけで、上に挙げたようなデメリットがあるのだろうか?そこまで飲み会に重きをおく人がたくさんいるのだろうか?実は飲み会なんて行かなくても全然問題なんてないのではないか?

残念だ。現実はそう甘くない。

飲み会を断れば、人間関係が悪くなるか?答えはイエスだ。飲み会を断ることで良くなる人間関係なんてない。つきあいの悪いやつだと思われないだろうか?こちらももちろんイエス。誘いを断ってるんだから、つきあいが悪い奴だと思われるに決まっている。組織の中での居場所がなくなるなんてことがあるだろうか?これも当然イエスだ。飲み会を大別な場だと考え、飲み会で楽しくコミュニケーションが取れる人をたくさん周りに集めたい人が世の中に山ほどいることは、どんなに寂れた田舎でも居酒屋がたくさんある様子を見れば一目瞭然。

飲み会はなんだかんだ言ったって、多くの人にとって本当に大切な関係づくりの場なのだ。それは否定しようがない。苦手だからと飲み会を断っておいて、それでいてデメリットを受け入れたくないだなんてそんな甘い考えはありえない。

では、飲み会が嫌いなあなたはやはり飲み会に行くべきなのだろうか。飲み会に行って、組織の中での立場を守れるように努力すべきなのだろうか。それがあなたの幸せに本当につながるだろうか。

さあ、私には分からない。あなたにとってそこがとても大切な居場所であれば、もしかしたら飲み会には行った方が良いのかもしれない。そうすればあなたの立場はより強固になり、幸せな日々がやってくるのかもしれない。ありうることだ。

一方で、どうだろう。わざわざこんな記事を探してきてまで読むあなたは、飲み会に行って気持ちの良い思いを少しでも味わうことができるのだろうか。

他愛も無い話に加われなかったことで、たったそれだけのことなのに弱く脆い心が傷つき、飲めるわけでも無いお酒を飲んで味も分からない食事を胃に収めて、それに安くないお金を支払ってまた集まりたいなどと心にもないことを言って別れ、そして帰り道に一人になって飲み会での出来事や話をしたくもないのに反芻しては舌打ちし、家に帰って風呂に入るとそこでもまた彼や彼女の顔が目の前に浮かんでは繰り返される苛立ちや嫉妬や恐怖。これらを受け入れてなお、そんなにも繊細なあなたが、飲み会で得られる大きいがしかしちっぽけでもあるメリットによって自分の幸せを勝ち取れるのだろうか。

さあ、私にはわからない。私にはわからないので、私のことをお伝えしておこう。私はデメリットを全て受け入れて、ほぼ全ての飲み会を断るようにした。

飲み会を断るデメリットは大きい。お陰で人間関係は狭まった。つきあいも悪いと思われていよう。組織の中での立場もよくなってはいないように思える。

だが私は自由な時間を得て、一人でいたければ一人でいて、家族といたければ家族といて、嫌な気持ちになることもなく目の前にある素晴らしい時を過ごす。いつものテーブルで、ゆったり食べ物を味わえる気分を保ちながら、食事をとってから風呂に入ってぐっすり眠る。

あくまで私の選択だ。お前は間違っている。そういう人は当然いよう。当たり前だ。飲み会は大切な場なのだ。そこで作り上げられるものはたくさんある。しかし飲み会の辛さがわからない人には、あなたや私の気持ちは分からない。だから私は私自身で道を決めなければならなかったのだ。

私は私の時間を選ぶ。どれだけくだらないと思われたとしても、これが私にとっての幸せの道筋なのである。

「お疲れ様でした」「ご苦労様でした」は失礼か?「労う」の意味が変わってきている。

「お疲れ様でした」を目上の人に向けていうのは失礼だという意見が最近ではあるらしい。「ご苦労様でした」が失礼という声は耳にしたことがあったが、お疲れ様でしたも良くないという人がいることは知らなかったので単純に驚いた。

この手のマナーは商売のタネにされているケースもあるため、批判の的になることが多いのだが、私自身は「お疲れ様でした」がダメであるという流れについてはなるほどと思える変化であるような気がした。

「お疲れ様でした」と「ご苦労様でした」は、どちらも労いの言葉だ。「労う」の意味を改めて調べてみると、goo国語辞書では「苦労や骨折りに感謝し、いたわる。現代では、同等または下の人に対して用いる。」とある。つまり、かつては「労う」は単に相手の苦労に感謝していたわる意味しかなかったのかもしれないが、現代ではそれは違っていて、労いの対象になるのは目下の人だけということになる。

「お疲れ様でした」「ご苦労様でした」これら2つの言葉を奪われて、我々は目上に何を言えばいいんだ!という怒りの声が聞かれたが、上記を考えるとそもそもその前提が違ってきているのだと思う。そもそも今の世の中では、労って良いのは目下の人だけで、目上に対して労うことそのものがアウトだと考える人が増えてきているのである。

もちろん、「そんなことまで気にして生きるのはめんどくさい。日本人は細かく気にしすぎだ。私はお疲れ様もご苦労様も使い続ける!」という人がいてもいい。

私もどっちかというとそっちの人間なので、少なくとも「お疲れ様でした」は使い続ける。しかしそれも相手によるかもしれない。少々上の人くらいなら、全然お疲れ様でしたで問題ないなんなら「おつかれした」くらいの感じで行く。

それがとんでもなく上の人で、しかも私自身が強い経緯を抱く相手であれば、またかなり違うかもしれない。本当にありがとうございましたという感謝の気持ちを伝える言葉を使うだろう。

日本人はとかく目上だの目下だのにうるさい、と言われるが、他の国の人と話してもやはり彼らもそういったことはある程度は気にするものだし平和に人が暮らしていくために必要な心配りの1つなのかもしれない。この間タモリと鶴瓶のラジオを聞いたが、30歳を過ぎてタレントになったタモリは芸人仲間の中でどうやって「後輩」扱いされることなくうまく潜り込むかにかなり苦心したという内容のことを彼は言っていた。タモリなので話半分で聞くべきにしても、それでもタモリのような人でも上だの下だのというようなことを意識するものなのだなあとふと思った。

挨拶できない大人の作り方

私は諦めるつもりありません。だってたった一言でちょっといい気分になってもらえるじゃないですか、挨拶って。ただ一言いうだけですよ。それも短い言葉です。別に満面の笑みで言わなくてもいいんです。少しくらいしかめっ面でもいい。まあできればニコッとして、それでおはようございますって言ってもらえれば一番いいですけど、でもいいんです。とりあえず一言言えばいいんです。おはようございまーす、とか、失礼しまーすとか。ハキハキしてなくてもいいし、一応聞こえればそれで十分。挨拶したってことが大切なんです。それだけで、相手はちょっと気分がいいんです。それができない人がいるんですよね。私はしてますよ。私はしてますけど、ほら、あちらからね。あちらからきちんとした挨拶が返ってこないというか、きちんとしてない挨拶も返ってこないというか。ただ目があって、その目が「どうも」といってるわけでもなさそうな目で。要するに無視されてるわけなんですけど。

どうしてでしょうね、結構な負担なんですかね、ちょっと口を開いておはようございますって言うのは。おはよう、だったらまだ少しはいいのかな。ございます、が負担なのですかね。濁音かしら。濁音が入ってるから、ちょっと言いたくないなとお思いになるのでしょうか。ありがとうございます、も考えてみたら濁音が入ってますね。ありがとう、なら言えるのかも。そうかも、濁音かも!あ、でも「失礼します」には、入ってないか。こんにちは、にもないですね。うーん。

いえ、私は続けますよ、挨拶は。とってもいいでしょう、挨拶。簡単だし、相手にもいい気持ちになってもらえるし、自分も気持ちがいいし。でもねえ、ほら。まあこうしてなんども続くとねえ。それはまあ多少は嫌な気持ちになったりするっていつか、腹がたつとまではいきませんけど。ねえ。いえ、私は続けるつもりですよ、挨拶。ええ、一応はですけど。

僕のサンタはスーツを着て、玄関からやってきた

幼稚園児だったか、あるいはもう小学生に上がっていたか。いずれにせよまだ幼かったある日の夕方、僕は父と2人で居間にいてテレビを見ていた。

不意に父は「誰か来た」と言って立ち上がった。彼は居間を出て、玄関へ向かったらしい。私はそのまま居間にいて、テレビを見ていた。すると玄関から父の声が聞こえてきた。

「ああ、どうもこんにちは」

大きな声で挨拶をしている。誰か知り合いが来たらしかった。父の声だけが聞こえてくる。

「そうですか!それはそれはありがとうございます。すみません、どうも。ええ、それでは。」

といったようなことを、居間からは姿の見えない来客とひとしきり話してから玄関を閉めるガラガラという音が聞こえてきた。

父のその話しぶりから会社の人が家に来たんだな、と幼い僕にも分かった。

父はすぐに居間に戻ってきた。

「サンタさんだった。ほら、プレゼント」

そう言って手に持った包みを僕に渡してきた。

僕はその包みをもらって、やったー!とも、サンタさんきてくれたの!とかそういうことは言わなかったり、思うこともなかった。

ただ、私は別の衝撃を受けていた。「サンタさんはスーツとトレンチコートを着てやってくるおじさんなんだ」と。うちにやってきたサンタを僕は自分の目で見たわけではなかった。しかし、玄関でサンタと話す父はいかにも会社の人と喋るような感じで話していたし、日曜の夕方でまだ真っ暗ではない時間に玄関に来る人はなんとなく普通の服を着た人なんだろうとその時僕は思ったのだ。だから、サンタはスーツを着て、冬なのでトレンチコートを着ていると僕はその時に理解し、そして何か不思議な衝撃を受けたのだった。一方で、そんな父の様子を見て、母は呆れたような顔をしていた。

そんな父だが、昨年は孫のためにサンタの服を買ってきて自らサンタの役を買って出た。だから息子はサンタというのは赤い服を着て白いひげとメガネをした背の高いおじいさんだと思っているはずだ。私のサンタとはやや格好が異なるが、その人もまた同じサンタなのである。

ドラマ「今日から俺は!!」第1話の感想。伊藤が良かった。

ドラマ「今日から俺は!!」を見ました。期待はしていませんでした。あんまり福田雄一の作品は趣味に合わない気がしていたもので。

しかしいざ見てみると、結構楽しかったのです。嬉しい誤算ですね。

三橋よかった

まず、三橋。

よかったですね。笑わせようとしすぎな気はしますけれども、ちゃんと面白かったです。

なんとなく、原作初期の三橋な感じのイメージです。モテたい、そこまで自信家であるわけでもない、そこそこ悪知恵が働く、という最初の頃の三橋っぽさがしっかりありました。

伊藤、超よかった

伊藤は写真で見ていたよりもずっとよかったです。

役者の顔が可愛すぎるものの、真面目だけれども決して賢いわけでもない雰囲気を感じました。

伊藤はむしろ原作の中盤から後半にかけての伊藤像という印象を受けました。

一番良かったような気がします。原作の伊藤って、見た目こそ違えどあんな感じなんだろうと思います。再現度もあるし、ドラマで見てもいい感じだし、1話目を見た限りでは伊藤がMVPだと思いました。

ふたりの喧嘩はイマイチ

三橋と伊藤の初喧嘩シーンはイマイチでした。一生懸命に戦ってみたら結果的に勝てた、ということはいいのですが、ふたりとも本当に喧嘩は強い人たちという設定は残しておいて欲しかったです。

なので、あの戦い方だと昨日まで普通の高校生だったのに、実は強かったという感じがあまりしませんでした。

おそらくこの先の開久戦等ではちゃんと戦えるようになっていて、その振りだったりするのでしょうが、にしてもちょっとやりすぎかと思いました。

谷川よかった

谷川はよかったです。

今井があまり大きくないので、谷川役がもっと小柄な人だともっとますますいい感じになったでしょうが、このへんは仕方ないです。

今井は原作ファン的にはもっと頑張れ

今井はもうちょっとという感じでした。

俳優が悪いわけではなく、脚本に(原作ファン的には)問題ありですね。脚本家に原作の今井はあまり愛されていないのではないかと思われます。

初回の今井だと、ただのアホすぎて原作ファンはついていきにくいです。原作を読んでない人にはあれでもいいのでしょうか。

三橋伊藤今井という三人が同じくらい立っていて初めて今日から俺は!!な気がしますので、あそこまでアホにしなくてもいいように感じました。

京子と理子も頑張れ

京子と理子も、もう少しな感じです。

京子は、原作ファン的には印象と違いすぎるかなあ、という感じ。理子も同じく。

素人的には配役が逆の方がイメージに合うんだけどなあ、と思いますがどうなのでしょうか。

バイプレイヤーの人々はまああんな感じで

ムロツヨシとか佐藤二朗とか、あの人たちはあれで完成しているので、あれでいいんだろうと思います。

原作ファンかつ福田作品ファン的にはたまらないでしょう。ただの原作ファンとしては、正直なところ職員室のシーンとかはあってもなくても大丈夫な感じでした。

智司と相良は期待

智司と相良には超期待しています。

特に相良。いいですねえ。あの俳優、ぴったりです。

ヤバイやつとしてしっかり描いてくれると楽しみだなあと思います。

ギャグはまあまあ

ギャグはどうですかね。まあまあですかね。

ドラマ三橋は、リズム感が私の好みなので、面白い演技そのものはいい感じだと思います。

やや顔芸はやりすぎだし、もっと少なくてもいいと思いますが、なんとなく進むにつれて減って来るのかなあと予想しています。

一応原作ファンです

原作は全部持っていて、どのパートも満遍なく繰り返し読んでるそこそこの原作ファンです。

私が原作が好きな理由は二つ。

一つは登場人物たちです。誰が好きということではなく、あの作品に出て来る人々が好きなのです。

主役級の人たちも、悪役の人たちもチョイ役の人たちも、どれも生きていて、そして身近に感じられて、マンガを読むことで彼らと接すると幸せな感じになるのです。

もう一つ好きなのは、ギャグのリズム感です。

ギャグのレベルそのものはものすごく高いわけではないと思いますが、そのリズム感がとても良いのです。

例えば、高崎の牛乳あたりの笑わせ方も、言葉で説明すればバカらしいものになってしまいますが、マンガで読んでいるとその素晴らしいリズム感のために吹き出してしまいます。

登場人物とリズム感のあるギャグ。これが私にとっては大切です。

反対に、ストーリーについてはそんなにまで思い入れがありません。もちろん、今井マンションとか、開久突入とか、修学旅行、軽井沢、高崎対北川、北根威など、個別の話やパートで好きなものはあります。

大切なのはそれぞれの物語で、あのキャラクターたちが動き回ってる様子を見たり、その楽しい発言ややり取りを見ることと、素晴らしいリズムで飛び込んで来るギャグがたまらなく好きなのです。

登場人物とリズム感は、ドラマ化で同じにすることは難しいのに

登場人物とリズム感が大事なので、そうなるとドラマ化で再現されることは難しいです。

まず見た目が違いますから、どうやっても俳優の印象に引っ張られます。すると、私が好きなあの人物たちとは、同じにはどうしてもなりません。

加えて、リズム感も変わります。ギャグ漫画のコマ割りを使ったギャグは、マンガならではの表現なので、映像にする際にどうしてもうまくいきません。

ですから、それを役者が演じるとなると、私が好きな三橋像と役者が演じる三橋像との間にギャップが生まれてしまうため、楽しめないだろうなあと想像していました。

ですが、なかなかいい感じですね。もうちょっと、というところは当然たくさんありますが、それでも次も見たいと思っています。

好きなマンガのドラマ化も悪くないなあと思いました。

懐かし系テレビ番組を、父はよく見ていた

まだ私が小学生だった頃、懐かしい昔の番組や懐かしの歌謡曲を流すテレビ番組を父はよく見ていた。

例えばゲバゲバのようなバラエティ番組だったり、あるいは狼少年ケンのようなアニメだったり、または高校三年生のような歌だったり。

横に座って私も時々見ていた。当然子どもには面白くない。

紹介される番組の大半は白黒だ。今でこそ白黒も味わい深く見られるが、当時の私には面白くもなんともない。色がないってほんとかよ!ただそう思っていた。

他の番組が見たいと主張しても、通らない。父は懐かしいと興奮して、盛り上がっている。やがて母もそこに入ってくる。そして同じく懐かしい盛り上がる。

つまらないので自室にこもるが、当時の子供部屋にはエアコンはなくて、夏場だといつまでもそこにはいられない。部屋にはテレビもなければ、当然スマホもPCもない。

結局しばらくすると、居間に戻るしかないわけだが、まだテレビは懐かしのナントカが続いている。

さて、翻って今の私の家の話だ。

まさに、あのときと同じように、私は見ているのだ。懐かしのナントカを!

あの頃こんなものが流行っていたとか、どの家にもこんなものがあったとか、そういうのを見て、しかも懐かしいー!とか言って興奮しているのだ。

そして小学生の息子はというと、たいへんつまらなそうにしているわけだ。

わかっているぞ、息子よ。これ、君には全く面白くないよな。知ってるんだ、私も。

これ懐かしいー!って、知らないよそんな話、だよな。

しかし断言しよう。

君もだ。君もきっとやるんだよ。私の父や、私がやったように、これ懐かしいといって昔のものをみて大騒ぎするのを。

大騒ぎしておいて、その自分を見てあー年取ったんだなあ、なんて思うこのよくわからない幸せと不幸せのごちゃ混ぜになった楽しみを。