2025年 3月 の投稿一覧

今更ではない。リモートワークと出社バランスについて考える。

リモートワークと出社のバランスは永遠のテーマだ。多分どちらが良いという結論は出ない。逆に考えれば、常に考えるべきテーマだとも言える。

今現在の私は、週に2回のリモートワークが許されている。土日休みの普通の週であれば週に3回出社する。

コロナの時、またそれが落ち着いてからもしばらくは完全リモートで働いていた。その感覚が抜けず、今の週3回出社は多すぎるというのが正直な感想である。多くても2回で十分だ。3回は多い。

何が面倒かと言えば、いくつか理由がある。一つは、通勤。そして準備。最後に人と会うことである。

通勤は本当にどうしたものやら。私は片道30分なので、住んでいるところを考えれば短いが、それでも無駄に感じる。できるだけ有意義に過ごそうと毎日英語のラジオを聴くようにしているものの、集中できないから学習効果は高くない。

何分以下なら面倒に感じないだろう。たぶん、贅沢を言えば0分になる。自宅のドアが職場につながっている状態であってほしい。ただそれだと仕事から離れられないから、最終的にはどこでもドアに行き着く。

続いては準備だ。支度には時間がかかる。男性と女性、あるいは化粧をする人としない人とでかかる時間は違ってくるだろう。男性の方が、また化粧をしない人の方が概して支度にかかる時間は短いと思うが、だとしても面倒には変わりない。

私でいうと、着替えには5分程度しか長くてもかからない。一番長くかかるのが髪のセットで、これが10分よりは短いくらい。だいたいトータルで10分から15分程度になるだろう。

これは大した時間ではない。大した時間ではないが、ゼロよりはるかに長いのもまた事実だ。リモートワークなら、最悪準備なしにもできる。カメラをオフにすれば良いのだから。あるいは、朝の一番忙しい時間に支度をせず、昼休みを使ってやったりすることも可能だ。なにしろフレキシブルである。

毎日のことなので、この数分が案外鬱陶しい。

最後に人と会うことの面倒だ。これはもう我慢しろという話である。仕事は人と関わることが基本なので、めんどくさがっていてはならない。甘えだ。

しかしだ。人は甘えたいものである。面倒に感じることはしたくないし、そして人間と関わることは多くの場合面倒だ。仕事の人間関係は、その人が好きだから関わるわけでないからなおさらだ。

いやそれは甘えだ。ふざけてはならん。しかし正直にいうとだるい。

こういうわけで出社は大変面倒だが、しかしその一方で会社に行くとやたらスムーズに仕事が進むことがあるのもまた事実だ。これが厄介だ。

出社すると捗るのは、一つには監視効果、もう一つが簡単に人とやり取りできるということに尽きる。

監視効果は情けない話だが、実際高い。人がいなければ人は集中しないことがあるし、他のことをしてしまったりする。運動と同じで、一人で自分に厳しくするのは難しいが、例えばジムに行けば頑張れたりする。これと同じだ。

デスクの裏を人が通れば、その時にただマップを見てバーチャル旅行をしているわけにはいかない。出張の予定もないのに、航空会社のサイトを見ている場合ではない。こういう効果は多分確実にある。情けない話だが。

また、人と会うのは面倒だが、しかしそばに人がいればちょっとした擦り合わせはその方が捗る。ときに同じ部屋にいても必ずチャットでやりとりしたがる人がいる。たぶん記録を残したいのだろう。そういう人がいてもいいが、反対に記録に残らずともサクッと話して終わりにしたい人もいる。そういう時結局早いし間違いがない。

そうして考えると、リモートワークと出社のバランスには結論が出ない。なんとなくフルリモートとフル出社は良くなさそうではある。どちらも異なる理由で効率が最大化しづらそうだ。体感的には週に2回くらい会社で仕事をするのが良いように感じる。問題は今の私の環境がそれを許してくれなさそうなところだ。

挨拶至上主義者というワードを知って。

挨拶至上主義者というワードをとあるところで見かけた。挨拶と至上主義の組み合わせに驚いて、ちょっと面白いとも思った。

「挨拶至上主義者」が指すのは、挨拶をしない奴はくたばっちまえくらいの勢いで挨拶を求める人のことだろう。私はどちらかといえばそっち側だが穏健派です。最低限の関係構築のために役立つと一般に言われてるわけだから、挨拶くらいしなよと思う。

ところで挨拶至上主義者を揶揄する人はというと、挨拶そのものよりも、挨拶を強要されることが嫌な人たちなんだろうと想像する。そして彼らは揶揄はしても、普段の挨拶はきちんとできる人なのかもしれない。そうして自ら進んでするのはいいが、強要されるのは嫌だし、もっというと挨拶を強要する人のことが気に入らないんだろう、と思う。

何かを強要されることへの反発は分かる。それが特にその人にとって意義を見出せないことであれば尚更だろう。例えば私の場合飲み会への強要は嫌いだ。最近では減ったがアルコールの強要もやめて欲しい。そう考えると私は反飲み会至上主義かもしれない。

飲み会至上主義者と挨拶至上主義者の共通点を探すと、それぞれ飲み会と挨拶という行為が好きという共通点がありそうだ。

「挨拶至上主義者」である私(穏健派です)が人に必ず挨拶をするのは、簡単にいうと挨拶が好きだからだ。挨拶は、無難な関係構築に大変役立つ。敵対するものではないあなたと同じコミュニティーの人間ですよ、という紹介をたびたびしているとの同じ。そのコミュニケーションを、定型化された一言で済ませられる大変便利なやりとりだ。「こんにちは」、「おはようございます」、「失礼します」。これらの決まりきった言葉を言うだけで、コミュニケーションが取れ、しかもそれが一般的にはプラスに働くやりとりになる。こんなに便利なものはない。挨拶が好きな理由は、これに尽きる。

一方で、飲み会はというと、私にはコストが高い。たしかにコミュニケーションには役立つが、臨機応変な立ち回りも求められるし、発言もコンテクストによって変えなければならない。私には、しんどさと利益が伴わないから、飲み会は好きになれない。

挨拶は簡単で尚且つ人間関係をよくするものだから好き。飲み会は、人間関係をよくするが、私には大変だから好きではない。単純化するとこういうことだ。

飲み会至上主義者(という人たちがいるなら、という言い訳をする必要もないくらいいると思う)は、飲み会が面倒だったりしんどかったりしないか、もしくはそれがしんどかったとしても、それ以上のメリットを感じているんだろう。反飲み会至上主義者である私は、そこにメリットを感じず、しかもしんどいので、強要されると嫌だと感じる。

では、「反」挨拶至上主義者はどうか。なぜ、そこまで挨拶至上主義者を嫌うのか。

強要されるのが嫌い派の人は一旦置いておき、普通に挨拶嫌いな人たちの気持ちを勝手に私が想像すると、考えられるのはその求められる頻度だろう。

朝、仕事場や学校に行くと、そこには挨拶しななければならない人が何人もいたりする。また、少し歩けば廊下でその日初めて会う人がいて、朝のうちはおはようございます、昼になればこんにちはやお疲れ様です、などと言わねばならない。そのたびたび発生するやりとりが、いくらそれが定型化されていたとしても負担になるしめんどくさいと感じる人がいても不思議はない。

あるいは一言大きな声で挨拶をすれば良い場合もある。しかし、それも一人x複数人に挨拶していると考えれば、まとめて済ませていてもトータルのエネルギーは同じになる。そう思えば面倒かもしれない。

加えて挨拶は毎日起こる。今日はするが明日は不要、ということは基本的にない。毎日求められる。そしてそれがずっと続く。

・・・ぐらいしかデメリットが私には浮かばないが、その辛さが私にはわからないのは、飲み会至上主義者に私の辛さがわからないのと同じだ。それぞれに、そう感じる人がいるのだと受け入れることが重要なのだろう。

でも私は挨拶はする。そして挨拶をしても返してきてくれない人には、心の中では「挨拶ぐらいしてよね!」と、思わせてはいただく。