「笑ってはいけない」黒塗り問題、日本の笑いが世界に飛び立つためにどうあるべきだったか

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今さらとは思いながらも、2017年末の笑ってはいけない黒塗り問題について書く。


私は日本の笑いが好きだ。「日本のお笑いが国外で人気」というニュースを見ると嬉しくなる。ガキの使いコンテンツはその意味で期待の星の1つだ。例えば図書館シリーズなど、国外で人気のあるコンテンツがいろいろあるという。ファンには嬉しい話題だ。

だから「笑ってはいけない」シリーズも、もっと国外でも知られて欲しい。もっと高く評価される可能性を持ったコンテンツだと私は思っている。

しかしながら、2017年末の「笑ってはいけない」は、国外での評価を上げるのではなく、反対に黒塗り表現で批判されてしまった。心底残念だ。

最近ではあまり聞かなくなったが、日本のお笑いファンの夢のひとつは「日本の笑いが世界中を笑わせる様子をこの目で見ること」だった。「日本の笑いのレベルは実は高くない」とか、「ハイコンテクストすぎて他の国では通用しない」とか、そういう声もある。それでも私は、日本の笑いが世界で愛されるところが見たい。それだけのパワーがあると思っている。

さて、日本の笑いを世界に連れ出すにあたり、この重たい車を誰に引っ張ってもらえばいいのか。

結局のところ、それをリードできる可能性があるのは、松本人志、ダウンタウン、彼らと一緒に番組を作ったスタッフ(そしてテレビ局)なのだと思っている。

ごっつええ感じが終わってすでに20年経ったが、その今でもなおトップにあるのは松本だ。

松本人志にしてみれば、どうして日本の笑いが世界で評価されるために自分たちが頑張らなきゃならないの?と思うだろう。だが、彼は頻繁にお笑いはチーム競技の側面もある、みんなで盛り上げていくものだ。このように語っている。彼に日本の笑いの将来について関心がないならそれまでだが、もしなんとかしなければならないという考えなら、将来の笑いを背負う芸人とのチームワークとしてぜひ引っ張ってもらいたい。

また、少なくともテレビ局にとってみれば、彼らのコンテンツが世界で通用するようになることは将来的な業績へのメリットにつながる。海外市場の取り込みは、日本の状況を考えれば絶対に必要だ。

さて、その前提で考えてみる。

日本のお笑いに対する世界からの評価を高めるためには、笑ってはいけないはどうすべきだったのか。日本の笑いは日本に通用することを世界に示すためには、黒塗りネタをどのように取り扱うべきだったのか。

結論:黒塗りネタは、やるべきではなかった

結論からいえば、笑ってはいけないで黒塗りネタはやるべきではなかった。ネタ、タイミング、その他の環境を考えると、他のネタにするなり、あそこでネタを入れないなり、あるいは放送を取りやめるなりすべきだった。

人種に関連する見た目を取り上げるネタは現代ではNGだから

もし世界で戦っていくなら、人種にまつわる見た目を模した姿でコンテンツを作ることはやめなければならない。これはもう随分前からNGだ。

日本でANAがバカリズムを金髪付け鼻姿で登場させて2014年に国内外で炎上した。もう四年前も前の話だ。それがいまだに炎上広告事例として記憶されているし、炎上コンテンツとして話題にもなる。すぐに放送中止になったにもかかわらず、結果的に有名なコンテンツになってしまった。

ラッツ&スターがももクロと一緒に黒塗りにした写真をツイートして炎上したこともあるらしい。それが2015年。3年前。

こういう事例は、コミュニケーションの世界では当たり前のように共有されて、知見として蓄えられている。つまり、常識になってきている。日本においても、人種にまつわる見た目をコンテンツ内で取り扱うことは、もうダメだ。

海外でも同様だ。日本人が黒塗り、金髪にすることだけがNGなのではない。他の国でも、人種による見た目の違いを取り上げることは許されない。

黒塗り問題が起きてから、ブラックフェイスで人気を博したというミンストレルショーの情報も頻繁に耳にするようになった。これなどは1970年代にはアメリカでは廃れたものだ。日本とアメリカの黒人差別の根深さや大きさ、歴史が異なるとは言えど、本来は今更参考にするようなものではない。

別の例では、つり目ポーズをしてアジア人への差別だと批判するケースも頻発している。ヨーロッパ、アメリカ、あるいは他の地域でも同じだ。つり目ポーズで有名人がSNSに写真を上げると、バッシングを受ける。それが当たり前なのだ。

ただつり目ポーズ炎上が、浜田黒塗りケースと違うのは、テレビ等のコンテンツではないということだ。

テレビで問題になった例もブラジルで2017に起きていた。韓国出身のグループの前でつり目ポーズをし、日系の少年にむけてもっと目を開けた方がいいと言ったらしい。なかなかひどい。
http://www.bbc.com/news/blogs-trending-40672028
日本語の記事もあった。
http://k-newsdaily.com/archives/12554

その結果、韓国ネットユーザー対ブラジルネットユーザーの罵り合い合戦になったというのでたいへんだ。

テレビでつり目ポーズをして炎上した、というような事例は多くはない。つまり、表現としてつり目ポーズ使用するのはダメだという考えが、基本としてしっかり浸透しているのだろう。先のブラジルの例も、MCが突っ走っただけとも見ることができる。もしかしたら組織としてはつり目は避けるべきだという常識を持っていたのかもしれない。

人種の違いが由来である見た目を真似ることは、どの国でもどの人種が対象でも、今の世界ではダメなのだ。

多様な国や人種の人が見るから

笑ってはいけないは、多様な国籍や人種の人が見る番組だ。

そもそも日本だけを見ても多様な人種の人が暮らしている。日本に暮らしているのだから、日本のテレビを見る。その人たちの中に、黒塗りを見て、それを不愉快に感じる人がいるだろうことは簡単に想像できる。

また、テレビ番組は自ら世界に配信しなくても、勝手にネットで国外にも公開されてしまうのが現状だ。違法にアップロードする連中が悪いのは間違いないが、今はまだそれは止められない。テレビで放送されたコンテンツは、勝手に世界にコピーされて、公開されてしまう。そのことは今のところは受け入れるしかない。だから、日本以外の人もそのコンテンツを見るであろうことは、これもまた簡単に予測できる。

冒頭で書いたように、ガキの使いは日本以外でも人気のコンテンツだ。だからネットに流れれば、それを見る人はたくさんいる。日本のコンテンツを紹介したい人もいるから、新しいコンテンツはどんどん公開されていく。その上、炎上するコンテンツを探している人もいる。だから、笑ってはいけないは人気コンテンツで、それを海外で見たい人も海外に見せたい人もいる上に、そもそも炎上ネタを探している人もいるわけだ。そこに黒塗りを突っ込んでいけば、当然炎上するに決まっている。

もう一つ浜田の黒塗り問題が広がる理由になったのが、単なる黒塗りではなくエディーマーフィーの変装だったからだろう。これが仮に日本のタレントであるオスマンサンコンだったり、日本の芸人のアントニーの変装であれば、ここまで広くは取り上げられなかったのではないか。しかし今回は知らない人はいないようなハリウッドスターだった。
世界中の誰もが知っている人を取り上げると、その分だけ多くの人にキャッチーなネタになる。その点でも国内外で批判されることを予見することのヒントにはできたはずだ。

差別問題は国内外でいま話題にされやすいから

時期にも問題があった。差別的な表現は、世界中で話題になりやすいものになっている。2017年終わりというのは、その機運がかなり高まっていた時期だった。

このところの世界的な流れの一つに、虐げられていた人たちを守ろうとする動きがあった。たとえばLGBTであり、あるいは#MeTooも同じ潮流にあるブームだと言っていい。
そういった人たちが声を上げること、そしてそれを社会全体で後押ししていくこと。それが2017年を動かしている大きな風の一つだった。

弱い立場にある人や権利を十分に得られなかった人、あるいは虐げられた人にきちんと目を向けようという世の流れがどんどん大きくなりつつあったのが、2017年の末だったとすれば、黒塗りがその時期に適さないネタであることは明らかだ。

加えて、ソーシャルメディアの存在によって個人が声をあげやすくなっていることも重要だ。(こんなの2017年に始まったことでもないし、10年前からそんな雰囲気はあったので本当は取り上げるまでもないが)こういったメディア環境もあって、差別的要素を含むものは口の端に乗りやすいという流れが、日本だけでなく世界中で起きていたわけだ。

批判を受けやすい時期に、批判が起こりやすいメディア環境のなかで、ダウンタウンの浜田雅功は、エディーマーフィーの変装として黒塗りにして出てきた。これだけそろっていれば、どのような結果になるかは明らかだったはずだ。

繰り返し:黒塗りはやめるべきだった

もし日本の笑いを世界に進出させるのであれば、黒塗りはやめるべきだった。

人種の見た目の違いをコンテンツに取り込むのは時代にあっていないし、日本向けのコンテンツでも多様な人が目にするし、差別的な要素を含むものはとくに炎上しやすい時代の流れだった。

これだけの条件が揃っている中で差別的と受け取られてなんら不思議ではない黒塗りをコンテンツに突っ込めば、当然批判の対象になる。誰だってわかる話だ。

もし、黒塗りが構成上必要だったと言うのなら

私は黒塗りネタに必然性はなかったと思っている。作り手目線で考えても、リスクとリターンのバランスが悪い。だが、プロである製作陣はエディーマーフィーの黒塗りを取り入れた。

なぜ、黒塗りネタが採用されてしまったのか

アメリカンポリスというテーマにあうものを探していたから

アメリカンポリスというテーマを2017年の笑ってはいけないでは掲げていた。そもそもこのテーマ選びも世界を目指すなら間違っているように感じるけれども、それは置いておく。

アメリカンポリスというテーマで、大晦日にテレビを見ている人が誰でも思い出せるキャラクターであることが必要だったのだろう。
ビバリーヒルズコップのエディーマーフィーがそこで候補に上がることは一応理解できる。なぜか。

分かりやすく違いが出せるものだから

このネタでは、分かりやすく違いが出せることが大切だ。浜田の変装ネタは冒頭のつかみの一つ。多くの人にわかってもらえるネタでなければならない。

笑いを起こさせる基本的な方法には、分かりやすく見た目を変えるやり方がある。大きい、小さい、長い、短い、多い、少ない、そして色が違う。
テーマにあうもので、分かりやすく見た目を変えられるものとして、ここでは「色を変えるネタ」が選ばれたのだろう。

手間がかかるものだから

そしてこれだけすこしトリッキーなのが、浜田にとって手間がかかるものであることも大切な条件だ。それは、「なぜお前は手間のかかるそんな変装を受け入れてしまったのか」という他の出演者や視聴者からのツッコミを誘い出すためだ。ここにこの変装ネタの面白さの一つがある。したがって、簡単にできる変装よりも、たとえば色を塗るような手間のかかるものが望ましい。

さて、このように考えていけば、黒塗りのエディーマーフィーが選ばれたことにもそれなりの理由がありそうだと分かる。アメリカンポリスというテーマを設定した時に、たしかにエディーマーフィーは分かりやすいしそれなりに手間もかかる。そこで笑いが期待できる。

とはいえ先に述べた通り黒塗りは避けるべきだったのだから、そのまま実行すべきではないはずだ。では、あくまで仮に、今回どうしても黒塗りがコンテンツのクオリティー向上に必要だったとして、どうすれば国外からの批判を免れることができたのだろうか。

表現の自由をメッセージにすべきだった

もし黒塗りが番組クオリティを上げるのに最適で、どうしても黒塗りをする必要があったなら、表現の自由をメッセージにして、批判が来ることを見据えた上でコンテンツ化して放送すべきだったと私は思う。

話し合われる価値のある問題提起だから

日本における黒塗りの是非は、議論する価値はありそうなテーマだ。

世界に出て行くのであれば「世界のルルールに合わせるべきなので黒塗りは避けるべき」というのが、一つの結論だと思う。しかし、そこに差別意識が比較的薄い(と思っている人が多い日本のような)地域において、あくまで個人のマネをする変装の一部としての黒塗りが許されるかという側面を加えると、これは様々な意見がでてきそうなテーマになる。事実、少なくとも日本においては黒塗りを擁護する声が起きている。

今時黒塗りって日本バカなのか?と他の国から言われることを怖がらないなら、議論を生むためのコンテンツとして使えなくはない。

しかし事実傷ついたり不愉快になる人がいることは確実なので、よほどの覚悟と信念と明確なゴールを持ってトライするのでなければ、やるべきではないことは間違いない。

上手くやれば日本のコメディのレベルの高さを国外に示せるから

もし、今のような時代に、あえて黒塗りにして、笑いを生み出しながらも問題提起し、その根底には差別撤廃に対する強い信念を込めることができるならば、それは日本の笑いのレベルの高さをかなり高次元で表現できるコンテンツになる。

日本の笑いは風刺が少ない。風刺がない笑いを程度が低いとは私は全く思わない。しかしながら、風刺を含まない笑いを低次元だと判断する人は日本にもいるし、他の国ではもっとその傾向が強いと推測される。

だから、黒塗りという時代に反する表現を用いながらも笑いを成立させ、しかも社会に対するメッセージ性も十分にある高次元のコンテンツが作れるなら、(それは不可能に近いことなので)本当にできるならチャンスだ。

黒塗りにする理由が作れるから

表現の自由をメッセージにするなら、それは黒塗りを制作側が妥当なものとする理由になる。その主張が正しいかどうかは別として、少なくともそこに黒塗りすることの主張は存在させられる。黒塗りが無意識な非常識行動ではなくなる。

もちろん批判はされるだろう。非常識だと言われるだろう。それでも、ルールブックを作れとか甘ったれた文句を言うよりは、そこに明確な主張があるほうがよほどよい。

やっぱり、黒塗りはやめるべきだった

さて、このように考えた上で結論に戻る。やはり黒塗りはやるべきではなかった。これを世界に受け入れられるように仕立てて展開することなんて、無理だ。

なぜこんなことが起きてしまったのか

それにしても、なぜこんなことが起きたのだろうか。

20年後をイメージして制作していないから

それは製作陣が、20年後の日本の笑い産業をイメージしてコンテンツを作っていないことが理由だ。今のことしか見ていない。目の前の地域のことしか見ていない。

なぜ先を見据えてコンテンツを作らなければならないのか。

日本は成長市場ではないから

日本だけで食っていくのはたいへん。分かりきっているのに、舵を切りきれてない。

海外には成長市場があるから

海外には大きな成長市場がたくさんある。分かりきっているのに、舵を切りきれてない。

きちんと育てれば、日本の笑いはファンを得る可能性があることをしっかり認識していないから

きちんと日本の笑いコンテンツを育てて、ブランド化していこうという思いがない。きちんと育てれば人気を得られるかもしれない、反対にいえばきちんと育てなければ人気を得られないのに、それをやろうとしていない。

もし、日本の笑いに世界に出て行くつもりがあるのなら、という前提で書いてきた。でも、日本の笑いが日本の中にこもりきりで良いわけはない。笑いは文化でもあるが産業でもある。海外市場にでなければ、いずれは小さくしぼんでしまう。育てるためには、外に出なければならない。

松本は、笑いはチームワークだという。さんまを批判してまで、ラジオではそう語ったこともある。

いまや彼は王者ではあるがプレーヤーの一人でしかないとも言える。したがって彼は笑いと笑い産業を育てる義務は自分にはないと感じているかもしれない。しかしそれでも、もし笑いがチームワークだというなら、それは将来の笑いを作る他の芸人のためのチームワークも発揮してもらえると、ファンとしては嬉しい。少なくとも、邪魔はしてはならない。

できるなら、松本にリードしてもらいたいと思っていた。ハイコンテクストでも、その先にある彼の面白さは、日本の人以外にも楽しんでもらいたいものだった。

だから、本当ならどのチャネルを使っても良いので、黒塗りネタの背景と考えや面白さを論理的に説明してもらいたかった。しかし彼はルールブックが欲しい、というあまり建設的ではない言葉で外を批判しただけだった。残念でならない。

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