挨拶至上主義者というワードをとあるところで見かけた。挨拶と至上主義の組み合わせに驚いて、ちょっと面白いとも思った。
「挨拶至上主義者」が指すのは、挨拶をしない奴はくたばっちまえくらいの勢いで挨拶を求める人のことだろう。私はどちらかといえばそっち側だが穏健派です。最低限の関係構築のために役立つと一般に言われてるわけだから、挨拶くらいしなよと思う。
ところで挨拶至上主義者を揶揄する人はというと、挨拶そのものよりも、挨拶を強要されることが嫌な人たちなんだろうと想像する。そして彼らは揶揄はしても、普段の挨拶はきちんとできる人なのかもしれない。そうして自ら進んでするのはいいが、強要されるのは嫌だし、もっというと挨拶を強要する人のことが気に入らないんだろう、と思う。
何かを強要されることへの反発は分かる。それが特にその人にとって意義を見出せないことであれば尚更だろう。例えば私の場合飲み会への強要は嫌いだ。最近では減ったがアルコールの強要もやめて欲しい。そう考えると私は反飲み会至上主義かもしれない。
飲み会至上主義者と挨拶至上主義者の共通点を探すと、それぞれ飲み会と挨拶という行為が好きという共通点がありそうだ。
「挨拶至上主義者」である私(穏健派です)が人に必ず挨拶をするのは、簡単にいうと挨拶が好きだからだ。挨拶は、無難な関係構築に大変役立つ。敵対するものではないあなたと同じコミュニティーの人間ですよ、という紹介をたびたびしているとの同じ。そのコミュニケーションを、定型化された一言で済ませられる大変便利なやりとりだ。「こんにちは」、「おはようございます」、「失礼します」。これらの決まりきった言葉を言うだけで、コミュニケーションが取れ、しかもそれが一般的にはプラスに働くやりとりになる。こんなに便利なものはない。挨拶が好きな理由は、これに尽きる。
一方で、飲み会はというと、私にはコストが高い。たしかにコミュニケーションには役立つが、臨機応変な立ち回りも求められるし、発言もコンテクストによって変えなければならない。私には、しんどさと利益が伴わないから、飲み会は好きになれない。
挨拶は簡単で尚且つ人間関係をよくするものだから好き。飲み会は、人間関係をよくするが、私には大変だから好きではない。単純化するとこういうことだ。
飲み会至上主義者(という人たちがいるなら、という言い訳をする必要もないくらいいると思う)は、飲み会が面倒だったりしんどかったりしないか、もしくはそれがしんどかったとしても、それ以上のメリットを感じているんだろう。反飲み会至上主義者である私は、そこにメリットを感じず、しかもしんどいので、強要されると嫌だと感じる。
では、「反」挨拶至上主義者はどうか。なぜ、そこまで挨拶至上主義者を嫌うのか。
強要されるのが嫌い派の人は一旦置いておき、普通に挨拶嫌いな人たちの気持ちを勝手に私が想像すると、考えられるのはその求められる頻度だろう。
朝、仕事場や学校に行くと、そこには挨拶しななければならない人が何人もいたりする。また、少し歩けば廊下でその日初めて会う人がいて、朝のうちはおはようございます、昼になればこんにちはやお疲れ様です、などと言わねばならない。そのたびたび発生するやりとりが、いくらそれが定型化されていたとしても負担になるしめんどくさいと感じる人がいても不思議はない。
あるいは一言大きな声で挨拶をすれば良い場合もある。しかし、それも一人x複数人に挨拶していると考えれば、まとめて済ませていてもトータルのエネルギーは同じになる。そう思えば面倒かもしれない。
加えて挨拶は毎日起こる。今日はするが明日は不要、ということは基本的にない。毎日求められる。そしてそれがずっと続く。
・・・ぐらいしかデメリットが私には浮かばないが、その辛さが私にはわからないのは、飲み会至上主義者に私の辛さがわからないのと同じだ。それぞれに、そう感じる人がいるのだと受け入れることが重要なのだろう。
でも私は挨拶はする。そして挨拶をしても返してきてくれない人には、心の中では「挨拶ぐらいしてよね!」と、思わせてはいただく。
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