
マンガ 「糞と便」

田舎を離れて東京に来てからもう15年近くになる。初めは何かすごいことをするんだ!といった思いを持っていたような気もするが、いつのまにかそういうのは忘れてしまって、満足のいく日々を送るにはどうすれば良いかと考えながら、大したことのない日々に喜んでみたり舌打ちしてみたりしている。
田舎には両親が暮らしている。ありがたいことに二人とも元気だ。病気もせず、金に困ることもなく、楽しそうにやっている。本当にありがたいことだ。両親が元気でいてくれるから、大したことのない日々を暮らせているとも言える。
離れて暮らしていると時々両親に会いたくなる。年に二回程度は里帰りをするのが例年なのだが、今年はコロナウイルスのことがあったり、妻の体調の問題があったりで二回は帰れそうにない。こういうときは特に久しぶりに顔が見たいなあと思うことが増える。
FaceTimeだったりLINEだったりを使えば頻繁に話もできるし顔も見られる。メッケージのやりとりも簡単だ。だかこれがなぜかなかなか億劫になるものだ。不思議だ。会いたいとか話がしたいと思っているのに、いざできるとなると少し面倒になってきて、朝が昼になり、昼が夕方になり、夜になると風呂に入ったりなんだりで忙しくなり、ああ今週もまた話さなかったなと後悔したりもする。そして翌日また話がしたくなり、でも億劫になってやめてしまう。
親との会話のチャンスはこうして失われていく。後でまた、他のことと同じように後悔するのだろう、きっと。それがわかっていても、他のことで同じように後悔してきたことが身に染みていたとしても、また繰り返すのだ。
そんなとき、地元の頃からの付き合いの友達と東京であったりすると、これはこれで面白いものだ。彼らは家族ではないが、子供の頃からの知り合いで、同じ地域で同じようにこども時代を過ごした仲間なので、話しているとタイムスリップしたような感覚だったり、なぜか家族と話しているような感覚にもなる。不思議だ。
だから年に数回彼らと会ったりするのが楽しみだったのだが、今年はコロナウイルスのことがあって、それもなかなか難しい。
いや、実際はこれも親と同じで、いざ会うとなると面倒になったり、会った後で何か不愉快な気持ちがやき怒ったりするのではあるが、さて全くないとなるとそれもまた問題なのである。
映画スクールオブロックを見た。期待していなかったが、泣かされてしまった。とは言え、私は疲れている時に映画を見るとたいてい泣くので、私が泣いたかどうかは面白さのバロメーターにはならない。例えば、「探偵はバーにいる」でも泣いた。あれのどこに泣けるところがあったか、全くわからない。しかし、疲れていると何処かに泣けるポイントを自分の心が探してきて、行っけー!とばかりに涙を放出しようとする。
スクールオブロックもそんな感じではあるが、結構しっかり感動してしまった。
以下ネタバレあります。
良かったのはデューイとネッドだ。デューイは、夢をあきらめてはいないが、それが叶わないことに薄々気づいているし、それを叶えるための努力も中途半端な男だ。ネッドは早々に夢を諦めて、もっと自分に向いていそうな仕事に切り替えてうまくやっている反面、夢をあきらめると言い切らずになんとなくやっているデューイを少し羨ましくも思っている。
二人とも夢との向き合い方はそれぞれ異なるが、共通しているのはどちらもその夢が叶えられていないことだ。
ここに自分を重ねた。私にも夢はあったし、今でも持っている。だが、デューイほど明らかに夢があることを外には出さない。かと言って、ネッドほど明確にあきらめてもいない。私はこの二人のどちらにも重なるし、どちらにも完全には重ならない中途半端な状態にある。
だから、デューイが自分の才能よりも優れた才能を持つザックを勇気付けるところに感動した。自分の才能に向き合ったからこそ、デューイは他者の才能にきちんと目を向けられるようになる。その変化がぐっとくる。ネッドが、自分の捨てた夢を変な形ながらも追いかけ続けるデューイの応援に駆けつけるのにも心を動かされた。自分があきらめたものを追い続ける友を応援するその姿がグッとくる。
スクールオブロックは、夢をあきらめた中年、夢をあきらめかけた中年たちの、癒しを求めるその心に寄り添う暖かな物語だ。
少なくともエンドロールまでは。
この映画は暖かい映画であるとともに、たいへん残酷な映画でもある。
エンドロールで、バンドメンバーが演奏を始めるが、唐突に少女の一人が歌に乗せて観客にメッセージを発し始める。「映画はそろそろ終わり」だと。それに応じて、デューイも「映画は終わりだから帰り支度を始めよう」と歌声を響かせる。これに、観客は戸惑う。そりゃたしかにエンドロールは始まっているが、学校の先生にはならなかったけど、子供向け音楽学校の先生としてデューイもネッドも楽しくやってるよ、という本編の締めくくりにあたる場面で、唐突に客観的な視点が持ち込まれるからだ。
ここで、私は我に返された。デューイは、デューイではない。彼は、俳優ジャック・ブラックだ。ネッドも、ネッドではない。調べれば、マイク・ホワイトという脚本家で、スクールオブロックは彼の脚本だというではないか。
当たり前の話だが、演者は演者であり、登場人物ではない。当たり前ではあるが、その直前までデューイに自分を重ね、共感していた私は戸惑うのだ。あのデューイはどこへ行った?と。私が自分を重ね、夢をあきらめるのは難しいよな。あきらめた方が幸せなのか、それともあきらめないのが幸せなのか、わからないよな、などと考えていた、あのデューイとネッドはどこへ消えた。
そこにいるのは、見た目こそ冴えない中年ではあるが、世界中で見られる映画の主演を張る男性だ。演技も上手い。歌もうまい。どう見ても、夢を叶えたであろう男である。
私とデューイと俳優。俳優は、デューイを離れ、私たちを置いてけぼりにする。デューイは急にあやふやな存在になり、俳優の後ろに隠れて逃げる。私はただ一人、テレビの前に座っていて、Netflixから次のおすすめ作品を選ぶように促される。
スクールオブロックは、優しい物語だ。私のように夢に向き合いきれず、それなりの幸せに満足しようとする人間の肩を引き寄せてくれる。そしてスクールオブロックさ残酷な物語だ。肩を引き寄せつつも、その横でニターっと口を横にして笑っている。
IKEAのPLATSAシリーズは、IKEA製品の中でも相当上位に入る素晴らしい製品だ。組み立て簡単、価格は手頃、なおかつ見た目もいい。三拍子揃う。
ところが、どうもイケアのプラッツァシリーズの良さが日本では理解されていないっぽい。海外の記事を見ると、他の国では高い評価を得ていそうなのに・・・。(特に上の記事などは、ここ最近で一番重要な製品群の一つ、とある。)
7 reasons why PLATSA is one of Ikea’s most important product ranges in recent years
What is Platsa and what does it want to achieve?
どちらもべた褒めだ。私も同じ意見で、プラッツァは素晴らしい製品だと思っている。なぜこの良さが伝わっていないのか。どうしたら伝わるのか。
引っ越しの多い人にも向いていることが伝わってない
プラッツァは、引っ越しや模様替えの多い人にも素晴らしい選択肢となる製品だ。なぜなら組み立てやすくバラしやすいから。
通常イケアの製品は買ったはいいが組み立てるのがめんどくさいこと請け合いだ。ドライバーは必須。下手すると金槌が必要な場合もある。一人ではとても組み立てられず、軽い気持ちでトライすると泣きを見る。
しかしプラッツァはかなり組み立てが楽だ。メインフレームはドライバーなどの工具を一切必要としない。固定にネジが使われていないからだ。板の側面に穴が開いていて、その穴に別の板の出っ張りを差し込んでグッと押すとハマる仕組みになっている。もちろん多少の力は必要だし、イケアなのである程度の重量もあるから大きなサイズのフレームを組み立てるなら力の強くない人は一人では難しいかもしれない。力自慢の人は一人で全然いける。
組み立て同様、バラすのも簡単だ。ネジがないので、はめ込んだ出っ張りを外すためにずらすように板を動かせばバラせる。やはり多少力は必要だが、決して難しいものではない。
組み立てやすくバラしやすいので、イケアの家具が苦手とする引っ越しにも対応できる。事前にバラしておけば次の家にも持って行きやすい。模様替えを繰り返す人にも向いている。バラして他の部屋に持っていけばいいから無理がない。
ただし、メインフレームに扉をつけたり引き出しをつけたりしようとすると、やはり多少めんどくさくはなる。扉も引き出しも、取り付けにはドライバーが必要だし、説明書がわかりにくくて苦戦したりもする。だが、一番の大物のフレームの組み立てが簡単なので、トータルの時間はかなり節約できるし、素早く組み立ては完了する。イケアの他のシリーズにはない良さであることは間違いないし、お勧めできる。
プラッツァ本体の価格はかなり安い。例えば幅60センチ、高さ120センチ、奥行き40センチのフレームだと5,000円だ。棚は一つ900円なので、中に2枚棚を入れるとして6,800円。扉も開き戸なら1枚1,600円だ。二枚つけて、引き出しを二つつけても全部で15,900円。相当安い。
ただし、これに引き戸をつけたりしようとすると、ちょっと値段は上がる。ここだけはどうにもならなそうだ。プラッツァは狭い部屋でとても役立つサイズ感なので、引き戸をつけるとさらにパワフルになる。それだけに引き戸が高いのはちょっと痛い。IKEA頑張れ。
見た目も結構いい。「結構いい」とやや控えめなのはなぜかというと、とってもおしゃれに見えるという類のものではなく、単に白い箱型の形状をしているため、使い勝手が良い。
日本の住宅の多くは白い壁紙。だから白い箱型ののもは合わせやすい。
2019年7月にシンガポールに旅行に行った。出発前はアラブ街でモスク見てインド街で買い物してとあれこれ計画していたが、いざ現地に着くととにかくひたすら暑い。気温は35度くらいでそこまででもない。といっても昔の日本を思えばそれでも十分暑いがなんとか耐えられるように日本人は慣らされてきたので気温そのものはなんとかなる。問題は日差しだ。赤道近くの国だけあって、日が差すと肌が文字通り焼けるように熱い。運がいいのか悪いのか、天気に恵まれたのでずっと晴れている。外を出歩く気にならず観光は予定通りできそうにないので、計画を変えていっぱい食べることにした。結果的にはそれが正解だったのかもしれないが、見たいものが見られなかったのは残念ではある。
さて、シンガポールにはまたいつか行くことがあるかもしれない。その時役立つように、食べたものや美味しかったものまとめておくことにした。公開するが基本は自分用なので読んで役立つ内容かはわからない。
加えてそれほど変わったものを食べたりもしておらず、あくまでベーシックなものがほとんどだと思う。シンガポールで何を食べるか調べたい人は、ほぼ日のカロリーメイツのページを見るのが一番いいと思う。コンテンツのボリューム設定が狂っているので全部読むのは大変だが、このページが結局間違いない。
ソンファには都合二回行った。美味しかったには美味しかったが、スープがコショウの強い長浜ラーメンのスープみたいな味がした。ラーメンだってスープが大切なので、それを受け入れればかなり美味しいものだと思う。でもラーメンの汁だった。
油条というお麩を油で揚げたようなのをサイドメニューとして頼んだが、これは大正解。スープに浸して食べるとかなりいい。ご飯よりも合う。下手したら肉よりもうまい。頼みすぎというくらい多く頼んでも問題ない。
チャイナタウンあたりにあるお菓子屋さんのエッグタルト。有名店。ホテルに帰ってから食べた。美味しいのは美味しいが、もっと甘いお菓子を想像していたので違和感はある。甘くないお菓子だともともと分かっていたらもっと美味しく感じたかもしれない。
カードで払うには10ドル以上必要というので、中華風のあげまんみたいなのも買って食べた。こっちのほうが美味しかったかもしれない。残念ながら名前は全然覚えてない。
蒸した鶏肉に生姜を効かせたソースをつけてレタスに巻いて食べるやつ。これは美味しかった。シンガポールでしか食べられない料理ではないし、頑張ったら家でも作れそうではある。が、おいしい。
ソースが美味しくて、そしてスーパーなどでもこのソースは手に入る。一つ買って帰って食べてみたところ、かなり店の味と違う印象。生姜が強ぎる。店で食べたときはそこまでではなかったのに。このソースはもう買わなくていい。ただしスープレストランのジンジャーチキンはまた食べたい。
クラークキーの屋台で買ったアイス。食パンに挟んで食べるやつ。一つ2ドルくらいだったかなあ。
おいしいが、アイスをパンに挟んで食べたらこういう味がするんだろうなあと想像した通りの味だったので、もう一度食べたいかといえばそうでもない。あ、でももしまた行くことがあったら、あのアイスを食パンに挟んで食べるやつって、ほんとにアイスを食パンに挟んで食べたらこんな味っていう味がするのか確かめたいってなって、また食べるんだと思う。しかも食べといて、もう食べなくてもいいなって思うんだろう。そのくらいの美味しさ。良くも悪くも。
マックスウェルの天天のチキンライス。夕方に行ったら空いてたので食べた。
一口二口食べたところでは、まあこんなもんかなと思ったが、食べ終わる頃にはメチャクチャ美味いに感想が変わっていた。仕組みはよくわからない。
次の日にgrabの運転手に天天で食べたと伝えたら、喧嘩別れした方の店の方が安くて美味いぞと言われた。店の名前は思い出せないが、まあ有名なやつ。そっちはスープをたっぷりかけてくれるらしい。天天も昔はスープをかけてくれていたが人気が出た今ではやってくれなくなったんだ、的なことを言っていた。
実際似たようなもんだろうと思うので、どっちでも行ける方に行けば良い。次は両方頼んで食べ比べしたい。
アヒルの絵の店のポテトチップス。一袋10ドルくらいだったかな。高い。
湖池屋のポテトチップスとは味も食感も違うが、湖池屋より何倍も美味いかといえばそんなことはない。とりあえず湖池屋は優秀だと再確認できるのでおすすめ。
まあ実際次は買わない。
なんだろう。まあまあだったかな。マンゴーサゴはおいしいものの、予想は超えない。日本にはないが、だからといってどうしても食べなきゃならないとも思わない。
店員のおばちゃん達が豪快。といえば聞こえは良いが簡単に言うと感じが悪い。日本のバカ丁寧さを求めるわけではないが、それでもちょっとあんまりかなとは思った。
マンゴースノーアイスもおいしいけれど、ここじゃなきゃダメという感じでは全然ない。観光客向けの甘味屋さんな印象。
悪くはないので一回行っとくのは良いけれど別に何回も行かなくてもいいかな。
おいしい。安心感がすごい。ちゃんとおいしい。食べたかった味のカニが食べられている、という感動。味に感動しているのとは違う。しかし、ああジャンボさんのカニさんは落ち着いていていい子だねえという涙。
注文するときサイズの指定をし忘れたが、大きすぎず小さすぎず、バッチリなサイズ感のカニを出してくれた店員さん。プロだった。
野菜もなかなか美味しかった。ニンニクで味付けしてもらうとどこでも似たような味にはなるけど、そしてジャンボも似たようなもんではあるけど、安心感から美味しく感じた。
もしかすると食に冒険が必要な人には物足りないかもしれない。我が家にはピッタリだった。また行きたい。
ホテルジェンタングリンの朝食は悪くなかった。一応メニューも毎日多少変わるし。
ラクサを毎日食べた。美味しかった。ただシンガポールではここでしかラクサを食べなかったから、名店レベルとどれだけ違うのかわからない。感覚的には、多分そんなに違わないのではないかと思う。もちろん実際のところは不明。
混み合ってくるとわけのわからない奥のせまーい席に通されたりしたので、そこは注意が必要。ちょっとしつこめに変えてくれといろんな店員に言い続けたら、4人目でやっと対応してくれた。端の狭い席でオーケーな人ならまあいいのかな。
モールも直結だし、また泊まってもいいかなと思う。
私は車に乗るのが好きだと自分では信じていた。毎週末になると車に乗って何処かに出かけるのは、自分が車が好きだからなのだとそう思い込んでいた。しかし車を手放して1年以上が過ぎた今思う。私は車に乗らなければならないという考えに捉われていたのだと。
1年半ほど前、私は駅から3分ほどのマンションに引っ越した。以前は駅には歩いて10分以上かかるところだったので、ずいぶん近くなった。都心にもやや近づいたため、それに伴って駐車場の価格も少し上がることになってしまった。そこで泣く泣く大好きだった自家用車を得ることにしたのだった。
新しい住居は駅から近いし、同じくらいの距離にカーシェアもある。数も多いのでいつでも利用できそうだった。加えて車を買う前にもカーシェアは使っていたから、使い勝手が良いことは十分わかっている。おそらく問題ないだろうとは思いながらも、車の運転が大好きな自分が車を手放してしまって大丈夫なのだろうかとかなり不安を感じていたのは事実た。
果たして引っ越して車を売り、いつでも思い立った時に車に乗れる環境ではなくなると不便を感じるようになった。ああ今車を持っていたらすぐに何処かに出かけられるのに・・・。そう思うことが頻繁にあった。だから初めの数ヶ月は、毎週とは言わないまでも結構な頻度で車を借りて出かけていた。
だがせっかく駅が近いマンションに引っ越したのだ。電車ももっと利用してみたい。そこでカーシェアからしばらく遠ざかって、電車であちこち出かけることにした。しかしそれもまたいずれは飽きる。楽に行ける場所はある程度行ってしまったので、それからしばらくは家の周りにある店や図書館、あるいは公園などにかなり行くようになった。
それからやや時間が経過して、また車に乗りたいなという気持ちになった。久しぶりにカーシェアを予約して車に乗り込む。そして運転していると、変な気持ちになった。なんというか、あまり面白くないし、その上車に乗るのが少し強いのだ。
少し乗らないうちに、車に乗るのが怖くなってしまっていた。どれだけ自分が気をつけていても、事故が起こるときは起こる。反対車線から対向車がこちらに向かって突っ込んでこない保証はない。自分が突発性の病気になって、どこかの建物に突っ込まないとも限らない。事故は起こるときは起こるのだ。
そのようなことを考えて、私はふと気がついた。車に乗ることが、本当にそこまで好きだったのかと。もちろん嫌いではない。車を操作する感覚も楽しい。移動して何処かに気ままに向かうことも愉快だ。だが同時に、少し無理をして毎週乗っていたのではないかとも思ったのだ。
私は電車で通勤する。車に乗れるのは週末だけだ。それ以外はほぼ乗ることはない。週末に車に乗らなければ、なんのために駐車場代などの維持費を支払っているか意味がわからない。乗らなければただ大きな物体を持っているだけで、それに大した価値はない。だから乗れる時には必ず乗らなければならないし、乗れる機会をできるだけ作らねばならない。そう心のどこかで感じていたのだ。
私は車を売って、そのプレッシャーから解放されていることに気がついた。そしてほっとしたのだ。車に乗れないというデメリットももちろんある。その一方でしかし、必ずしも車に乗って出かけなくても良いというメリットもあることがわかったのである。
今の私は、車に乗りたければカーシェアで自由にあちこち行ける。同時に、車に乗らずに家の周りでのんびりしたり、電車に乗って出かけることもできる。車を持つことによって得られる自由を捨てて、車を持たないことによって得られる自由を楽しむことができるようになったのだ。
Netflixのタイニーハウスという番組を気に入って見ている。直訳すれば小さな家だが、どうもアメリカでいうところのタイニーハウスはトレーラーのようにタイヤが付いていて移動できる機能を持った小さい家を言うらしい。ハリケーンだのサブプライムローンだのといろいろあった結果、でかい家を持つって価値観以外にもあっていいんじゃない?的なあたりからタイニーハウスの流行が始まったらしい。私調べなのでやや適当ですが、多分そんな感じ。
私自身も似たような考えで狭いマンションを買って住んでいるので、まあ分かる。分かるがしかし、これはアメリカの番組だ。小さいって言ってもトイレがうちのリビングぐらいあったりするんでしょと斜に構えて見たところ大違いで、むしろこんなとこ住めるか?と私が心配してしまうほどのものであった。
番組内容は単純で、タイヤ付きの小さな家、タイニーハウスを作ろうとしている人(中年夫婦だったり、若い夫婦だったり、一人暮らし女性だったりいろいろ)が、MCの男二人に手伝ってもらいながらその小さな家を完成させる様子を見せるというものだ。
何本か見ているが、2人のmcが何者なんだかよくわからない。少なくとも1人は建具を自分で作ったりしているので何か建築だか建設だかの背景を持つ人なんだろが、もう1人はプロジェクトマネージャー的というかスケジュールはどうだとか時々見にきて言ってくる人な感じ。よく分からないが、嫌な感じのするわけでもない二人組の男たちだ。
家の持ち主たちはというと、普通のアメリカ人たち。年齢や人種は様々だがまあ一般の人たちだ。いろんな理由があって小さい家を作ろうとしているんだけども、この番組のハイライトの1つが、分かっていたはずなのにいざ作ってみるとあまりに家が小さくてこれマジで住めるのかと家主自身が驚いて引いてるシーンだ。
当然である。大きめのキャンピングカーくらいのサイズの中に、リビング、キッチン、寝室、シャワーにトイレと全てを入れるわけだから広いわけがない。その上彼らの多くが今現在住んでいる家は、アメリカでいうところの標準サイズに収まる家だ。つまり日本の感覚でいうと大層広い。したがって、今の家と新しいタイニーハウスとの間の落差がものすごく大きいわけである。
番組中盤に思ってたより狭くて困惑する家主パートが挿入されるのだが、これがやたら面白い。腕組みして、「うーん、これ暮らせるかな、狭いな」なんて夫婦で顔を見合わせている。しかも家具などがまだ入っていない状態で彼らは大抵見るので、この狭いスペースに家具が入ったら一体どうなるんだろうと心から心配しているわけだ。
見ている私もここで腕組みして「いやー、これは無理でしょう!」とか言って盛り上がる。
ところが番組はうまくできていて、家具を入れたり細部を作り込んでいくとあら不思議、家主たちは「こんなに素敵になるとは思わなかった!サイコー!」と大喜びして終わる。
番組的にはここで終わるが、見ている方はそれで終われない。明らかに「いや、やっぱそれ狭いぞ!」と感じるからだ。夫婦が2人並んでで来たばかりのタイニーハウスのリビングで、ソファでくつろいでいたりするシーンを見せてくれるわけだが、たまにならいいけど毎日は結構きついんじゃない?と思わずにはいられない。いずれ多少は散らかるだろうし、そうした場合はどうするんだろう。こちらは想いを馳せることしかできない。
しかしタイニーハウスは続いていく。次々と小さな家を作りたい人が現れては、小さな家が作り出され、途中でその狭さに驚くも最終的にはサイコーと住人がその家に吸い込まれていく。これがタイニーハウスである。
コンビ芸人っぽい名前の駅がある。おぎやはぎ式駅名と私は呼んでいる。しかしその多くが、どっちがボケでどっちがツッコミかが分かりにくいのが実情だ。
そこでいくつかのおぎやはぎ式駅を取り上げてボケとツッコミを明らかにしていこうと思う。
人を笑わそうとしているのに喰らうとは何事かと思わなくもないが、本人の名前が由来なのだから仕方ない。もちろん馬喰がツッコミで横山がボケだ。意外と優しいツッコミなのだがいかんせん変人なので時々本気で怖い。一方の横山はいい味のボケをかましてくるものの、味があるだけでキレがない。お気に入りの商売ネタがもう少しハネればと祈るばかりだ。
ツッコミは小竹でボケは向原だ。向原は言うこともやることもやや破天荒だが筋が通っているので人気がある。小竹はというとメガネをしゃくりあげながら一生懸命にツッコむ姿がまた可愛らしい。面白くないことこそ難点ではあるが、これからに期待できるコンビだ。
今も昔も調子に乗っているコンビだが、腕は確か。双子なので見分けがつきにくいが、少しこざっぱりした方がボケのみなとで、気持ち優しそうに見えるのがツッコミのみらいだ。
スター性こそないものの、実力派なのがこのコンビ。大塚の奇抜なボケに、これまた雪が谷の奇抜なツッコミが冴え渡る。大手事務所に所属するが、東京ローカルな仕事に力を入れて頑張っている様子が好感を抱かせる。
ベテランのツッコミには味が染み込みすぎてまるでボケのように聞こえるツッコミがあるが、まさにそれ。中山のツッコミはその落ち着き払った低い声でゆったりと響きわたる。小柄な原木がこれまたのんびり発するボケにツッコミと言う名のボケで重ねてくる。観客も声にならない笑いを腹のなかに感じるのみで、それでもなおこれこそが漫才なのだと感じ入る。笑いとは何かを考えさせてくれる名コンビがこの原木中山だ!
かつては清澄がボケで白河がツッコミだったが、いつからかダブルボケのようなスタイルに変わってきた。新進気鋭かと思わせておいて従来のオーソドックスな漫才を入り口としながらも、やがて新しいタイプの笑いを見せてくれるコンビだ。問題は流行りに少し乗っかりすぎな印象を受けるところか。ベテランの域に入りつつあるのだから、もう少し自信を見せて欲しいところではある。
言わずと知れた曲者コンビ。言うのも野暮だが、伊勢佐木がボケで長者町がツッコミだ。元はピン芸人だった長者町だがあえてボケの伊勢佐木を加えてコンビとした。これが大正解。伊勢佐木の華のあるオーラと長者町の確かな腕であっという間にスターダムを駆け上った。ややグレーな芸風も持ち味であり、やはり人気も根強い。
荏原中延
松本の影響から逃げられない芸人がいる。その最後の砦が青山だ。ボソッと呟くおしゃれスタイルのボケをいまだに貫き、いよいよ売れないが売れてるというよくわからないところにまで達してきている。一丁目はボケと間違えられがちだが、実はツッコミだ。なぜボケと間違われるかといえば、青山のおしゃれなボケに反して一丁目は声を張りすぎなのである。しかし彼らはそれで良いのだ。それでこその青山一丁目なのだ。
牛込神楽坂
若松河田
中野坂上
武蔵のボケはパワフルだ。力強く勢いがありキレもある。素晴らしい安定感である。小山のツッコミはどうか。悪くはない。オーソドックスなツッコミ。悪くはないのだが何か足りない。何か足りないようでいてこれでいい。形容しがたいバランスが見事なコンビだ。
武蔵のボケはパワフルだ。力強く勢いがありキレもある。ただし、人間性には疑問が残る。小山という決して悪くない相方を持ちながらも、小金井という別のツッコミと組んだ。小金井のツッコミは一流だ。だがしかしコンビを解消するでもなく、単に掛け持ちをするという武蔵の性格にはやや違和感を覚える。
武蔵のボケはパワフルだ。力強く勢いがありキレもある。ただし、繰り返すが人間性には疑問が残る。一体いくつのコンビを掛け持ちすれば気がすむのだろうか。しかしながら一方で武蔵の目利き力にはひれ伏すしかないのもまた事実。小杉という最高のパートナーを得て、いまでは誰よりも人を呼ぶ名コンビだ。才能は全ての批判を叩き潰すのである。
千歳烏山
千歳船橋
祖師ヶ谷大蔵
トリオ
名古屋のツッコミに矢田の中ボケ、ドームの大ボケという構成だ。
落合南長崎
グループ
大泉学園
堀切菖蒲園
大阪
今福鶴見
天下茶屋
野田阪神
岸里玉出 きしのさとたまで
どの世界でも世代交代は起こる。
Netflixがいいのは、昔好きだった映画を久々に見られることかもしれない。おそらくオーシャンズ8を見たからではないかと思うが、唐突にアメリがオススメされてきた。DVDも持っていたし、かつてはVHSでも持っていたからまさに擦り切れるほど見た。
ストーリーはもちろん好きだし、俳優たちもいいが何よりいいのは音楽だ。Yan Tiersenの曲がぴったりきている。この人の名前の読み方はヤン・ティエルセンであっているのだろうか。アメリのサントラも相当に聞き込んだが実は知らない。
久々に見てみると、音の演出にすごく凝って作られた映画なのだなと強く感じた。
まず冒頭の子供の頃のアメリが遊ぶイントロ。紙テープをふうっと吹いて飛ばすカットではぱらぱらというかカサカサというかなんとも言えない心地よい音がする。あるいは大人になったアメリが自室で軽商品の蓋を落としてしまうシーン。蓋が転がって剥がしてしまうタイルを外すときの音、そこに手を突っ込んで奥の間を取り出すときの引っ張るような音、そして間を開けた直後に流れるYan Tiersenの曲。どれもがとても良い気分にさせてくれる。ニノと出会って子供の頃に鏡遊びをしていたときの音もそうだ。肝になるシーンでは、重要な要素にはどれにも小気味の良い音が加えられて、やや大げさな感じもするもののそれがこの映画らしい味を生み出している。
登場人物が好きなことを表すカットでも一つ一つ良い音が加えられている。同僚の好きなことは指を鳴らすこと。売店の女は喘息の薬を使っているがこれも良い音を立てる。ストーカー男はプチプチを潰すのが好きだし、アメリが好きなクレームブリュレの表面を壊す時も良い音がなるし、豆の中に手を突っ込む時も気持ちの良い音がなる。アメリの友達が好きなのは猫に水をやる時に器を床に置くとなる音だ。どれも良い糞意味を生み出す。
それ以外にも音を生かした場面はたくさんある。ドミニク・ブルドトーとドミニク・ブルトドー。ドミニク・ブルドトーの棺が階段から降りてくる時の音。どれもが印象的に残っている。
そういえば昔好きな映画の音声だけを録音して眠る時に聞いていたことがある。不思議なことに面白い映画は音声だけを聞いていてもとても面白いのだった。それが聞き取れない言語のも載っであっても、音楽の鳴るタイミングやセリフの音、それらがとても良いバランスで配置されていて、内容がわからなくても長く聞いていられるのだった。
アメリでは音声だけで聴くというのには試したことがなかったが、この映画も多分音だけで楽しめる映画なのではないかと思う。
幼稚園児だったか、あるいはもう小学生に上がっていたか。いずれにせよまだ幼かったある日の夕方、僕は父と2人で居間にいてテレビを見ていた。
不意に父は「誰か来た」と言って立ち上がった。彼は居間を出て、玄関へ向かったらしい。私はそのまま居間にいて、テレビを見ていた。すると玄関から父の声が聞こえてきた。
「ああ、どうもこんにちは」
大きな声で挨拶をしている。誰か知り合いが来たらしかった。父の声だけが聞こえてくる。
「そうですか!それはそれはありがとうございます。すみません、どうも。ええ、それでは。」
といったようなことを、居間からは姿の見えない来客とひとしきり話してから玄関を閉めるガラガラという音が聞こえてきた。
父のその話しぶりから会社の人が家に来たんだな、と幼い僕にも分かった。
父はすぐに居間に戻ってきた。
「サンタさんだった。ほら、プレゼント」
そう言って手に持った包みを僕に渡してきた。
僕はその包みをもらって、やったー!とも、サンタさんきてくれたの!とかそういうことは言わなかったり、思うこともなかった。
ただ、私は別の衝撃を受けていた。「サンタさんはスーツとトレンチコートを着てやってくるおじさんなんだ」と。うちにやってきたサンタを僕は自分の目で見たわけではなかった。しかし、玄関でサンタと話す父はいかにも会社の人と喋るような感じで話していたし、日曜の夕方でまだ真っ暗ではない時間に玄関に来る人はなんとなく普通の服を着た人なんだろうとその時僕は思ったのだ。だから、サンタはスーツを着て、冬なのでトレンチコートを着ていると僕はその時に理解し、そして何か不思議な衝撃を受けたのだった。一方で、そんな父の様子を見て、母は呆れたような顔をしていた。
そんな父だが、昨年は孫のためにサンタの服を買ってきて自らサンタの役を買って出た。だから息子はサンタというのは赤い服を着て白いひげとメガネをした背の高いおじいさんだと思っているはずだ。私のサンタとはやや格好が異なるが、その人もまた同じサンタなのである。
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