コミュニケーション

キッズケータイが使えないなら、Bsize Botを使えばいいじゃない?

Bsize Botを買った

この4月に息子が小学生になった。幼稚園児の間はバス通園だったが、小学校は徒歩で通学することになる。

集団登校ではなく、一人ずつ勝手に行くらしい。自分が子供の頃も一人で勝手に歩いて学校に行っていた。そのはずなのに、さて実際に子供を一人で歩いていかせるとなると「まじか、あぶなすぎるだろう!?」と思ってしまう。不思議というかなんというか、甘い。

でも、学校について行くわけにもいかない。一人で行かせるしか選択肢はない。そうは言っても、心配だ。

じゃあ、なにかツールを持たせようということになって、探してみた。しかし、どうもちょうどいいものがない。

そもそもはキッズケータイを検討していた。ところがうちでは使えないことがわかった。なぜなら、格安SIMだから。

どうしようとネット上をうろうろしていたところ、Bsize Botを見つけた。

Bsize Botサイトを見て、アプリをダウンロード、アプリから端末購入を決断するまで、結構即断だった。

即断できたのは、昨年ガイアの夜明けでこの端末とサービスのことを見ていたから。やっぱりテレビの影響力は強いなあ。

あとで調べてみたら、一人家電メーカーとかいってひとりでたちあげた会社が作っているらしい。そういえばガイアでもそんなことを言っていたような気もする。

番組の中では、おしゃれな感じのデスクライトがまず紹介されて、そのあとでBsize Botが紹介されていた。子供が連れ去られたり、どこかに行ってしまわないか見張りたいがいいサービスがないと悩んでいる親が、このサービスを使ってみて、なんかいい感じ!と感動して終わる、みたいな構成だった。

その時はこんなサービスもあるのだねー、ふーん、程度にしか思っていなかったが、いざ導入を検討するととてもいいサービスだなーと改めて感じた。だから即断できた。

小学校一年生にはスマホを持たせる気にならない

なぜこのサービスがいいかというと、使用する端末がスマホではないからだ。

Bsizeに決める前に、キッズケータイやなんかも考えた。だけど、キッズケータイは3大キャリアからしか出ておらず、去年IIJMIOに乗り換えてしまった私にはキッズケータイは選べない。

すると次の候補としては、格安SIMでも選べるスマホが出てくる。しかし、小1にスマホ持たせるかー?という気持ちが拭えない。

スマホなんかを渡したら、一日中スマホから離れられなくなるのは目に見えている。もしかしたらそれも案外いいのかもしれないが、残念ながらこちらはデジタルネイティブではない。自分はスマホいじりまくってるくせに、子供にはよくないという思い込みがある。

じゃあどうすんの?と悩んでいたところにBsizeは飛び込んできた。

これはスマホじゃない。画面もないしスイッチもない。持って運ぶだけだ。だから子供にも変な影響はきっとない。

スマホじゃないから、学校に持っていっても問題ない。今時携帯端末の一つくらい学校も許可してやってもやってもいいんじゃないの?という気もするが、やっぱりダメなもんはダメらしい。時代が変わっても新しい技術には学校は厳しい。というか親もスマホ持つなとか言ってしまうわけで、学校がというよりは大人は厳しい(懐が狭い)というべきか。

さてそうなるとそもそも選べる端末がないじゃないか!しかしそこに単なる四角いBsizeの登場だ。完璧。

子供には「お守り」といって渡している

ちなみにうちのこどもは機械の類が大好物だ。風呂の給湯器だけでも相当の時間を潰せるほど好きだし、スマホなんか渡したらもう集中しすぎて何も聞こえなくなるほどだ。

そんな子供にも、このサービスはぴったりだ。どうしたかというと、「とてもすごい機能を持ったお守りだ」といって渡したのだ。

うちの子は、機能の説明をしてもらうと、大変嬉しがる。新しいことが好きだから、すごーいととても喜ぶ。だから、自分が持っているこの真っ白い端末は、それが電波を発していて自分の居場所を伝えることによって、お父さんやお母さんが自分の場所を知ってくれて結果として自分を守ってくれる、というその魔法のような機能を知って嬉しいのだ。

だから、ただの白い小さな箱で、しかも「お守り」というわけのわからない言葉で持って渡されても、おとなしくそれを自分のカバンに入れて持ち運んでくれている。

これがもしへんに液晶画面が付いていたりとか、もしくは電池の残量を示すゲージとかがあったりすると、ちょっと厄介なことになる。

ちょくちょく端末を手にとって見てしまうだろうし、気になって他のことが手につかなくなるだろう。

しかし問題ない。何しろただの白い小さな箱だ。光ったりしないし、動いたりしない。音も出ない。すばらしい。

ちょっとだけ不安なこと

ただし、ちょっとだけ不安なこともある。それはこのサービスではなくても、類似のサービスでも同じように気になるはずのことなので、Bsize Botの問題ではないかもしれないが。

気になるのは、情報のセキュリティ。私はデータセキュリティーに詳しくないから、本当にこの端末から発信されるgpsデータが、見守り登録した人にしか見られないという保証があるのか、と思ってしまうのだ。

アプリを見る限り、見守り申請というのを出してそれをオーナーが許可しない限りはデータは見られないはずだから、まあ大丈夫なのだろうとは思う。

でもその辺のデータがどんな風に管理されているかは、ユーザーは見ることができない。データ管理者がそのデータを見ることはない、とは思っている。でも誰かは見られるはず。だとすると、それはどの程度完璧に安全なの?という不安は残る。

あとは、子供に由来する不安だ。子供がこの端末をどこかにおいてきたり、あるいはこれを持っていることを悪意のある人に知られたりすると、悪用される可能性がある。

音は出ないし、マイク機能もない。ただ位置情報を発信しているだけ。もちろんこのシンプルさこそがBsize Botの魅力なので、ここにへんな機能を足してくれというつもりは毛頭ないが、それでもただこの端末を捨てさせたりすれば子供が怖い目に会わさせれ雨可能性があるという意味では多少不安が残る。(不安が残るというだけで、このサービスを否定するつもりはくりかえすがまったくない。月額500円程度で大きな安心が買えるので本当に素晴らしいと思っている)

まだ我が家では導入して時間が立っていないので、また発見があれば追記したいと思う。

追記(2018.3.25):通知がこない!サポートに問い合わせると即対応方法を教えてくれた

早速問題が発生した。私のスマホにだけ、通知がこないのだ。奥さんのスマホには来ている。私の方には来ていない。これは困る。

困った時はアプリのお問い合わせページをチェック。通知を受け取るためには以下の設定が必要。

  • アプリ上で地点登録する
  • アプリ上で通知をオンにする
  • スマホ上で通知をオンにする

自分のスマホを再確認したが、きちんとすべて設定している。でも、通知がこない。

こういう時は運営会社に問い合わせをするのが一番だが、小さい会社だというので反応が遅いのではないか、と思いながらもメールで問い合わせ。すると意外にも翌朝には返信があった。こういう素早い対応は印象が良い。

それによると、iPhoneを使っている場合は時々そういうことがあるらしい。一度ログオフして、アプリをアンインストールして再度インストールせよとのこと。

早速トライ。再インストールして、試してみると・・・お!ばっちり届く!これで子供の居場所がわかります。機能やサービスもいいし、問い合わせへの対応も的確で素早かったので、これでまたオススメポイントが増えた感じ。

マーケティングの定義と、私がこの言葉を使わない理由

マーケティングという言葉は、ほんとうに厄介な言葉だ。言葉の定義をはっきりさせないままたくさんの人に使われてしまっている。

会議で「それはマーケティングの仕事でしょう」とか誰かが言った時、結構な割合でその時のマーケティングは「広告コミュニケーション」だったり、「プロモーション」だったりする。もう少し広い意味で使われていたとしても、「マーケティングコミュニケーション」の範疇からは出ないレベルの内容までだ。その上位の概念として使われることは、残念ながら私の働く環境ではかなり少ない。

マーケティングの定義

じゃあ、マーケティングってなんなのよ、と問われれば私はこう考えている。

「顧客のニーズに応えるサービス・製品を提供し、顧客を満足させるとともに利益を得ること」

もっとスマートな言い方はあるかもしれないが、「顧客ニーズ」とか「製品」「サービス」だとかが出てきて、そっから「利益を得る」という話に落ち着くだろう。

これは主にコトラーの言っていることとざっくり同じになっている(はず)。定番の定義づけだと思う。

ときどきドラッカーの定義もセットで出てくることがあるが、あれは実用性が低い定義なのでイマイチだと思っている。「セールスを最終的にはなくすこと」的なアレだ。この定義はオシャレすぎる。じゃあ具体的にどうすんの?みたいなところに落ちていかない。定義として不完全。やっぱりドラッカー的な定義の方が扱いやすい。

最近見た中では、ネスレの人が言っている定義づけがわかりやすくてよかった。

「顧客の問題を発見して解決することで、新しい価値を生み出すこと」

なるほど、利益を生むとか言わないんだな。でも新しい価値を生み出すことが利益を生み出すわけで、言っていることは一緒だ。この定義が良いのは「顧客の問題」とはっきり言っていることと、さらにそれを「解決する」と明言していることだ。そしてその二つを組み合わせて使っていることも大事だ。

単に顧客の問題を発見するだけだと、それはマーケティングの一部でしかない。反対に、解決するだけでも不足している。発見して解決するところまでを合わせて行うことがマーケティングだ。その点でとても正しいし、わかりやすい定義だなと思った。

日常で使われるマーケティング

でも実際には、日常ではコトラー的な意味でマーケティングという用語が使われることは少ない。なぜならカバー範囲が広すぎるから。普段の仕事、特に現場に近い仕事をしているときは、こんなに上位の概念を持ち出して来なければならないケースは多くない。

ところが、マーケットという言葉が語源であろうマーケティングは、なんとなく使いやすそうな響きを持っている。

思わず使ってしまうのだ。私はマーケティング担当です、とか。そんでほとんどの場合繰り返しになるがそのマーケティングはプロモーションだったり広告だったりする。

確実に「今広告の話をしているな」とわかるような場面なら問題ない。もしくはそこでマーケティングの定義をはっきりさせる必要がない茶飲み話ならそれも良い。問題は業務の定義がはっきりしないと、相手と業務におけるバッティングが発生しそうな時だ。

たとえば、マーケティングリサーチを担当している人とやりとりしたい時、目の前にマーケティング担当ですと言っている人がいた場合、その人がリサーチまで見ているのかどうかわからない。マーケティング担当というのは、コトラー的な意味であれば上流から下流まである程度見る役割を果たしていてほしい。

じゃあさっきの「マーケティング担当です」と言っている人はそういうロールかというと、相当な頻度で違う。というか、数名でやっている会社を除けばマーケティング全般を担当している人がいるケースは稀だ。ほとんど「販促担当です」の意味で使われている。

だからマーケティングという言葉を使わない

マーケティングという言葉を使うと、こういう混乱が起きてしまう。「その人がどの意味でマーケティングを使っているかぐらい感じ取ってよ」という意見もあるんだろうか?

それはちょっと大変だ。結構めんどくさい。

それにマーケティング担当とか、マーケティングの話をするのなら、マーケティングってなんだっけと古典は読んでおいた方がいい。そんで古典を読んでおくと、この意味でマーケティングという用語を使うと変だし混乱が起きるな、と思うようになるはずだと思う。

というか、そもそも「マーケティング」は示す領域が広すぎるから使わない方がいいなと思うようになるはず。

だけどいちいちマーケティングの定義について、「その場合のマーケティングとおっしゃっているのは・・・」とか言い始めるとめんどくさいしおかしな奴になってしまうので、必要のない限りはやらないし、自分自身も曖昧な話をしてしまうことになるので、マーケティングという言葉は使わなくなりました。

かわいいキャラクターの共通点を考える

かわいいキャラクターというのは、大抵共通する特徴を持っている。

その共通点を考えてみる。

丸い。

かわいいキャラクターは、大抵丸い。

ドラえもん、ピカチュウ、キティちゃん、ミッキーマウス、おさるのジョージ、ビー玉びー助。どれも丸いか、丸いところをたくさん持っている。

四角いキャラクターでかわいいとされるものは少ない。スポンジボブとか、かわいくない。一反木綿もかわいくない。ベジータとかトゲトゲで、やはりかわいくない。パッコロリンのパックンは少しかわいいが、あれは特別。リンちゃんもかわいいけどあれも例外。かわいいキャラはたいていまるい。

小さい。

あと、かわいいキャラクターは、小さい。大きくても子供サイズまで。

ドラえもんとか、実物見たら大きく見えるかもしれないけど、のび太と大体同じサイズ。だいたい子供と同じ。かわいい。

キティちゃんはリンゴ何個とか言ってなめているが、つまりそれだけ小さい。

ジェリーも小さい。だからかわいい。コロンは丸い上に小さいのだから、それはそれは当然かわいい。

大きいやつは残念ながらかわいくない。マシュマロマンも大きくなったら怖くなった。ぬりかべなんかは四角い上に大きいから、もちろんかわいくない。ダンボは一見大きいが、象としては小さい。だから例外。

かわいいキャラクターの特徴は、まず丸いこと。続いて小さいこと。これらは分かりやすい。

では最後の1つは何か。黄色いこと!とか言われることもあるが、違う。

弱い。

それは、弱いこと。

自分より強いやつには、心から気を許せない。丸っこくて小さいけど、見ているこっちを脅かす存在は、見ていてかわいくない。

なんだかんだで最終的にこっちが本気出せば勝てる、というくらいの力関係であることがかわいいキャラには必要。そうでないとかわいいとは思えない。

例えば名探偵コナン。

丸っこいところもあるし、小さい。ではコナンはかわいいだろうか。

コナンは見た目は子供とかいいながら、同時に中身は大人とか言う。とんでもない切れ者だ。普通の大人では勝てないくらい賢いし、しかも強い。特殊な道具とかも持ってるし。だから、かわいくない。

あるいはサウスパークの子どもたち。

丸っこくて小さいが、かわいくない。あれはとんでもない下ネタとか暴言とか言うし、しかも頑張っても言い負かすことはできそうにない。危険で乱暴でもある。最終的に頑張っても勝てそうにない。だからかわいくない。

でも強くても、なんとかこちらが勝てそうなところがあれば、そのキャラクターは可愛くなりうる。

アラレちゃんは、かわいい。丸くて小さくて、でもめちゃめちゃ強い。めちゃめちゃ強いが、彼女は賢くない。知恵を使えば最終的にはやっつけられる感じがする。もしくは仲間にできそうだ。完敗はしないし、むしろ隙も多い。だから、気を許せる。その結果、かわいく見える。

ピカチュウ。ピカチュウもかわいい。丸くて小さいが、強い。強いけど、あれはポケモンだ。捕まえられる。つまり、その気になれば、こちらがコントロール可能だ。だから、かわいいと思える。

コントロール可能か、というところが大切だ。見ている側の方が、そのキャラクターよりも結局は強者であり、上に立てることが保証されていることが、キャラクターのかわいさの秘訣なのだ。

「笑ってはいけない」黒塗り問題、日本の笑いが世界に飛び立つためにどうあるべきだったか

今さらとは思いながらも、2017年末の笑ってはいけない黒塗り問題について書く。


私は日本の笑いが好きだ。「日本のお笑いが国外で人気」というニュースを見ると嬉しくなる。ガキの使いコンテンツはその意味で期待の星の1つだ。例えば図書館シリーズなど、国外で人気のあるコンテンツがいろいろあるという。ファンには嬉しい話題だ。

だから「笑ってはいけない」シリーズも、もっと国外でも知られて欲しい。もっと高く評価される可能性を持ったコンテンツだと私は思っている。

しかしながら、2017年末の「笑ってはいけない」は、国外での評価を上げるのではなく、反対に黒塗り表現で批判されてしまった。心底残念だ。

最近ではあまり聞かなくなったが、日本のお笑いファンの夢のひとつは「日本の笑いが世界中を笑わせる様子をこの目で見ること」だった。「日本の笑いのレベルは実は高くない」とか、「ハイコンテクストすぎて他の国では通用しない」とか、そういう声もある。それでも私は、日本の笑いが世界で愛されるところが見たい。それだけのパワーがあると思っている。

さて、日本の笑いを世界に連れ出すにあたり、この重たい車を誰に引っ張ってもらえばいいのか。

結局のところ、それをリードできる可能性があるのは、松本人志、ダウンタウン、彼らと一緒に番組を作ったスタッフ(そしてテレビ局)なのだと思っている。

ごっつええ感じが終わってすでに20年経ったが、その今でもなおトップにあるのは松本だ。

松本人志にしてみれば、どうして日本の笑いが世界で評価されるために自分たちが頑張らなきゃならないの?と思うだろう。だが、彼は頻繁にお笑いはチーム競技の側面もある、みんなで盛り上げていくものだ。このように語っている。彼に日本の笑いの将来について関心がないならそれまでだが、もしなんとかしなければならないという考えなら、将来の笑いを背負う芸人とのチームワークとしてぜひ引っ張ってもらいたい。

また、少なくともテレビ局にとってみれば、彼らのコンテンツが世界で通用するようになることは将来的な業績へのメリットにつながる。海外市場の取り込みは、日本の状況を考えれば絶対に必要だ。

さて、その前提で考えてみる。

日本のお笑いに対する世界からの評価を高めるためには、笑ってはいけないはどうすべきだったのか。日本の笑いは日本に通用することを世界に示すためには、黒塗りネタをどのように取り扱うべきだったのか。

結論:黒塗りネタは、やるべきではなかった

結論からいえば、笑ってはいけないで黒塗りネタはやるべきではなかった。ネタ、タイミング、その他の環境を考えると、他のネタにするなり、あそこでネタを入れないなり、あるいは放送を取りやめるなりすべきだった。

人種に関連する見た目を取り上げるネタは現代ではNGだから

もし世界で戦っていくなら、人種にまつわる見た目を模した姿でコンテンツを作ることはやめなければならない。これはもう随分前からNGだ。

日本でANAがバカリズムを金髪付け鼻姿で登場させて2014年に国内外で炎上した。もう四年前も前の話だ。それがいまだに炎上広告事例として記憶されているし、炎上コンテンツとして話題にもなる。すぐに放送中止になったにもかかわらず、結果的に有名なコンテンツになってしまった。

ラッツ&スターがももクロと一緒に黒塗りにした写真をツイートして炎上したこともあるらしい。それが2015年。3年前。

こういう事例は、コミュニケーションの世界では当たり前のように共有されて、知見として蓄えられている。つまり、常識になってきている。日本においても、人種にまつわる見た目をコンテンツ内で取り扱うことは、もうダメだ。

海外でも同様だ。日本人が黒塗り、金髪にすることだけがNGなのではない。他の国でも、人種による見た目の違いを取り上げることは許されない。

黒塗り問題が起きてから、ブラックフェイスで人気を博したというミンストレルショーの情報も頻繁に耳にするようになった。これなどは1970年代にはアメリカでは廃れたものだ。日本とアメリカの黒人差別の根深さや大きさ、歴史が異なるとは言えど、本来は今更参考にするようなものではない。

別の例では、つり目ポーズをしてアジア人への差別だと批判するケースも頻発している。ヨーロッパ、アメリカ、あるいは他の地域でも同じだ。つり目ポーズで有名人がSNSに写真を上げると、バッシングを受ける。それが当たり前なのだ。

ただつり目ポーズ炎上が、浜田黒塗りケースと違うのは、テレビ等のコンテンツではないということだ。

テレビで問題になった例もブラジルで2017に起きていた。韓国出身のグループの前でつり目ポーズをし、日系の少年にむけてもっと目を開けた方がいいと言ったらしい。なかなかひどい。
http://www.bbc.com/news/blogs-trending-40672028
日本語の記事もあった。
http://k-newsdaily.com/archives/12554

その結果、韓国ネットユーザー対ブラジルネットユーザーの罵り合い合戦になったというのでたいへんだ。

テレビでつり目ポーズをして炎上した、というような事例は多くはない。つまり、表現としてつり目ポーズ使用するのはダメだという考えが、基本としてしっかり浸透しているのだろう。先のブラジルの例も、MCが突っ走っただけとも見ることができる。もしかしたら組織としてはつり目は避けるべきだという常識を持っていたのかもしれない。

人種の違いが由来である見た目を真似ることは、どの国でもどの人種が対象でも、今の世界ではダメなのだ。

多様な国や人種の人が見るから

笑ってはいけないは、多様な国籍や人種の人が見る番組だ。

そもそも日本だけを見ても多様な人種の人が暮らしている。日本に暮らしているのだから、日本のテレビを見る。その人たちの中に、黒塗りを見て、それを不愉快に感じる人がいるだろうことは簡単に想像できる。

また、テレビ番組は自ら世界に配信しなくても、勝手にネットで国外にも公開されてしまうのが現状だ。違法にアップロードする連中が悪いのは間違いないが、今はまだそれは止められない。テレビで放送されたコンテンツは、勝手に世界にコピーされて、公開されてしまう。そのことは今のところは受け入れるしかない。だから、日本以外の人もそのコンテンツを見るであろうことは、これもまた簡単に予測できる。

冒頭で書いたように、ガキの使いは日本以外でも人気のコンテンツだ。だからネットに流れれば、それを見る人はたくさんいる。日本のコンテンツを紹介したい人もいるから、新しいコンテンツはどんどん公開されていく。その上、炎上するコンテンツを探している人もいる。だから、笑ってはいけないは人気コンテンツで、それを海外で見たい人も海外に見せたい人もいる上に、そもそも炎上ネタを探している人もいるわけだ。そこに黒塗りを突っ込んでいけば、当然炎上するに決まっている。

もう一つ浜田の黒塗り問題が広がる理由になったのが、単なる黒塗りではなくエディーマーフィーの変装だったからだろう。これが仮に日本のタレントであるオスマンサンコンだったり、日本の芸人のアントニーの変装であれば、ここまで広くは取り上げられなかったのではないか。しかし今回は知らない人はいないようなハリウッドスターだった。
世界中の誰もが知っている人を取り上げると、その分だけ多くの人にキャッチーなネタになる。その点でも国内外で批判されることを予見することのヒントにはできたはずだ。

差別問題は国内外でいま話題にされやすいから

時期にも問題があった。差別的な表現は、世界中で話題になりやすいものになっている。2017年終わりというのは、その機運がかなり高まっていた時期だった。

このところの世界的な流れの一つに、虐げられていた人たちを守ろうとする動きがあった。たとえばLGBTであり、あるいは#MeTooも同じ潮流にあるブームだと言っていい。
そういった人たちが声を上げること、そしてそれを社会全体で後押ししていくこと。それが2017年を動かしている大きな風の一つだった。

弱い立場にある人や権利を十分に得られなかった人、あるいは虐げられた人にきちんと目を向けようという世の流れがどんどん大きくなりつつあったのが、2017年の末だったとすれば、黒塗りがその時期に適さないネタであることは明らかだ。

加えて、ソーシャルメディアの存在によって個人が声をあげやすくなっていることも重要だ。(こんなの2017年に始まったことでもないし、10年前からそんな雰囲気はあったので本当は取り上げるまでもないが)こういったメディア環境もあって、差別的要素を含むものは口の端に乗りやすいという流れが、日本だけでなく世界中で起きていたわけだ。

批判を受けやすい時期に、批判が起こりやすいメディア環境のなかで、ダウンタウンの浜田雅功は、エディーマーフィーの変装として黒塗りにして出てきた。これだけそろっていれば、どのような結果になるかは明らかだったはずだ。

繰り返し:黒塗りはやめるべきだった

もし日本の笑いを世界に進出させるのであれば、黒塗りはやめるべきだった。

人種の見た目の違いをコンテンツに取り込むのは時代にあっていないし、日本向けのコンテンツでも多様な人が目にするし、差別的な要素を含むものはとくに炎上しやすい時代の流れだった。

これだけの条件が揃っている中で差別的と受け取られてなんら不思議ではない黒塗りをコンテンツに突っ込めば、当然批判の対象になる。誰だってわかる話だ。

もし、黒塗りが構成上必要だったと言うのなら

私は黒塗りネタに必然性はなかったと思っている。作り手目線で考えても、リスクとリターンのバランスが悪い。だが、プロである製作陣はエディーマーフィーの黒塗りを取り入れた。

なぜ、黒塗りネタが採用されてしまったのか

アメリカンポリスというテーマにあうものを探していたから

アメリカンポリスというテーマを2017年の笑ってはいけないでは掲げていた。そもそもこのテーマ選びも世界を目指すなら間違っているように感じるけれども、それは置いておく。

アメリカンポリスというテーマで、大晦日にテレビを見ている人が誰でも思い出せるキャラクターであることが必要だったのだろう。
ビバリーヒルズコップのエディーマーフィーがそこで候補に上がることは一応理解できる。なぜか。

分かりやすく違いが出せるものだから

このネタでは、分かりやすく違いが出せることが大切だ。浜田の変装ネタは冒頭のつかみの一つ。多くの人にわかってもらえるネタでなければならない。

笑いを起こさせる基本的な方法には、分かりやすく見た目を変えるやり方がある。大きい、小さい、長い、短い、多い、少ない、そして色が違う。
テーマにあうもので、分かりやすく見た目を変えられるものとして、ここでは「色を変えるネタ」が選ばれたのだろう。

手間がかかるものだから

そしてこれだけすこしトリッキーなのが、浜田にとって手間がかかるものであることも大切な条件だ。それは、「なぜお前は手間のかかるそんな変装を受け入れてしまったのか」という他の出演者や視聴者からのツッコミを誘い出すためだ。ここにこの変装ネタの面白さの一つがある。したがって、簡単にできる変装よりも、たとえば色を塗るような手間のかかるものが望ましい。

さて、このように考えていけば、黒塗りのエディーマーフィーが選ばれたことにもそれなりの理由がありそうだと分かる。アメリカンポリスというテーマを設定した時に、たしかにエディーマーフィーは分かりやすいしそれなりに手間もかかる。そこで笑いが期待できる。

とはいえ先に述べた通り黒塗りは避けるべきだったのだから、そのまま実行すべきではないはずだ。では、あくまで仮に、今回どうしても黒塗りがコンテンツのクオリティー向上に必要だったとして、どうすれば国外からの批判を免れることができたのだろうか。

表現の自由をメッセージにすべきだった

もし黒塗りが番組クオリティを上げるのに最適で、どうしても黒塗りをする必要があったなら、表現の自由をメッセージにして、批判が来ることを見据えた上でコンテンツ化して放送すべきだったと私は思う。

話し合われる価値のある問題提起だから

日本における黒塗りの是非は、議論する価値はありそうなテーマだ。

世界に出て行くのであれば「世界のルルールに合わせるべきなので黒塗りは避けるべき」というのが、一つの結論だと思う。しかし、そこに差別意識が比較的薄い(と思っている人が多い日本のような)地域において、あくまで個人のマネをする変装の一部としての黒塗りが許されるかという側面を加えると、これは様々な意見がでてきそうなテーマになる。事実、少なくとも日本においては黒塗りを擁護する声が起きている。

今時黒塗りって日本バカなのか?と他の国から言われることを怖がらないなら、議論を生むためのコンテンツとして使えなくはない。

しかし事実傷ついたり不愉快になる人がいることは確実なので、よほどの覚悟と信念と明確なゴールを持ってトライするのでなければ、やるべきではないことは間違いない。

上手くやれば日本のコメディのレベルの高さを国外に示せるから

もし、今のような時代に、あえて黒塗りにして、笑いを生み出しながらも問題提起し、その根底には差別撤廃に対する強い信念を込めることができるならば、それは日本の笑いのレベルの高さをかなり高次元で表現できるコンテンツになる。

日本の笑いは風刺が少ない。風刺がない笑いを程度が低いとは私は全く思わない。しかしながら、風刺を含まない笑いを低次元だと判断する人は日本にもいるし、他の国ではもっとその傾向が強いと推測される。

だから、黒塗りという時代に反する表現を用いながらも笑いを成立させ、しかも社会に対するメッセージ性も十分にある高次元のコンテンツが作れるなら、(それは不可能に近いことなので)本当にできるならチャンスだ。

黒塗りにする理由が作れるから

表現の自由をメッセージにするなら、それは黒塗りを制作側が妥当なものとする理由になる。その主張が正しいかどうかは別として、少なくともそこに黒塗りすることの主張は存在させられる。黒塗りが無意識な非常識行動ではなくなる。

もちろん批判はされるだろう。非常識だと言われるだろう。それでも、ルールブックを作れとか甘ったれた文句を言うよりは、そこに明確な主張があるほうがよほどよい。

やっぱり、黒塗りはやめるべきだった

さて、このように考えた上で結論に戻る。やはり黒塗りはやるべきではなかった。これを世界に受け入れられるように仕立てて展開することなんて、無理だ。

なぜこんなことが起きてしまったのか

それにしても、なぜこんなことが起きたのだろうか。

20年後をイメージして制作していないから

それは製作陣が、20年後の日本の笑い産業をイメージしてコンテンツを作っていないことが理由だ。今のことしか見ていない。目の前の地域のことしか見ていない。

なぜ先を見据えてコンテンツを作らなければならないのか。

日本は成長市場ではないから

日本だけで食っていくのはたいへん。分かりきっているのに、舵を切りきれてない。

海外には成長市場があるから

海外には大きな成長市場がたくさんある。分かりきっているのに、舵を切りきれてない。

きちんと育てれば、日本の笑いはファンを得る可能性があることをしっかり認識していないから

きちんと日本の笑いコンテンツを育てて、ブランド化していこうという思いがない。きちんと育てれば人気を得られるかもしれない、反対にいえばきちんと育てなければ人気を得られないのに、それをやろうとしていない。

もし、日本の笑いに世界に出て行くつもりがあるのなら、という前提で書いてきた。でも、日本の笑いが日本の中にこもりきりで良いわけはない。笑いは文化でもあるが産業でもある。海外市場にでなければ、いずれは小さくしぼんでしまう。育てるためには、外に出なければならない。

松本は、笑いはチームワークだという。さんまを批判してまで、ラジオではそう語ったこともある。

いまや彼は王者ではあるがプレーヤーの一人でしかないとも言える。したがって彼は笑いと笑い産業を育てる義務は自分にはないと感じているかもしれない。しかしそれでも、もし笑いがチームワークだというなら、それは将来の笑いを作る他の芸人のためのチームワークも発揮してもらえると、ファンとしては嬉しい。少なくとも、邪魔はしてはならない。

できるなら、松本にリードしてもらいたいと思っていた。ハイコンテクストでも、その先にある彼の面白さは、日本の人以外にも楽しんでもらいたいものだった。

だから、本当ならどのチャネルを使っても良いので、黒塗りネタの背景と考えや面白さを論理的に説明してもらいたかった。しかし彼はルールブックが欲しい、というあまり建設的ではない言葉で外を批判しただけだった。残念でならない。

Facebookで誕生日メッセージを受け取りたくない時の設定

Facebookの誕生日メッセージを受け取るのが面倒になって来ているなら、そのほとんどを受け取らないようにする方法があるのでご紹介。

Facebookは誰かの誕生日になるとユーザーにその通知が勝手に行く。だから普通に使っていると、つながっている人から年に一度誕生日おめでとうというメッセージを受け取ることになる。

Facebookを使い始めて間もない頃は、誕生日メッセージを受け取るのも楽しかった。それほど仲がいいわけでもない人から、祝いのメッセージが届くのはなかなか新鮮だったので、こういうのもなかなかいいなと思った。

ただしそれは最初の一年目だけ。次の年からは、またメッセージが来たけど、年賀状的な儀礼になって来ている感覚がして、めんどくさい・・・と感じるようになってしまった。

実生活でも友達がたくさんいて、その人たちがみんな誕生日を覚えていてくれて毎年誕生日会が開かれる人にとっては、毎年メッセージが送られてくるくらいなんともなのかもしれない。しかしながら、私のように友だちも少なく、誕生日を覚えていてくれるのは家族とごくごく一部の妙な記憶力の人たちだけという人間には、祝われた後でありがとうと返して行くことはもちろん、メッセージを受け取ることすらも結構な負担になる。コミュニケーション好きの人からしたら何に困っているのか意味がわからないだろうと思うが、事実なので仕方ない。

さて、実生活で祝われることが少ない人が

Facebookでおめでとうメッセージを受け取らないようにするにはどうすればよいのか。

問題は、Facebookが勝手にその人の誕生日がきたら、その友達に「あの人今日誕生日ですよ!」とふれて回る機能を持っていることだ。Facebookに誕生日を言いふらすのをやめてもらえれば、そもそも今日が誕生日だと知られずに済むので、結果として誕生日おめでとうメッセージを受け取ることなくその年の誕生日を迎えることができる。

やり方は簡単。「誕生日の公開範囲を変える」だけ。

プロフィール設定画面を見ると、誕生日の横に公開範囲を設定するボタンがあるのがわかる。

Facebook設定画面

Facebook設定画面で・・・

ここで誰に誕生日を見せるかを決めればよい。私の場合は、自分のみ、に変更した。

Facebook設定画面

自分のみを選ぶ

これで誕生日が来ても、Facebookが気を利かせて「この人今日誕生日ですよー!」と大声で言いふらさなくなる。

もし特定の人だけに誕生日を知られたくない、もしくは特定の人にだけ知らせたいなら、それも個別に設定できる。面倒なので私はずばっと全部を非公開にしておいた。

数年前にこの形に変更したところ、それからは全くメッセージがこなくなったので、全く無いとさみしいかもと思う人は、やめておいたほうがいいかもしれない。

あと、誕生日を覚えている人からは、メッセージが届いてしまうかもしれない。その場合は仕方ないので受け入れるしかない。

USJみやげの百味ビーンズをもらって、手痛い目にあった

先日、とあるところから「百味ビーンズ」というお土産をもらった。ハリー・ポッターシリーズをご覧になったことがある方であればお分かりかもしれない。USJで売られているお土産の1つである。

どのようなものかと言うと、パッケージに入ったゼリービーンズだ。パッケージの大きさは5センチ四方×高さが10センチ程度の紙製の箱で、昔風のきれいな絵が描かれたなかなか可愛らしい見た目をしているパッケージである。こんな感じ。

さてこの百味ビーンズであるが映画の中でどのような扱いを受けたお菓子かと言うと、1口で言えば闇鍋のお菓子版といった感じのものである。

中にはスイカ味やマシュマロ味のような、いかにもおいしそうな味のビーンズも入っているが、反対にミミズ味や土の味、草の味、さらには鼻くそ、耳くそ、ゲロといったとても口にしたくは無いような事まで再現されたジェリービーンズなのである。

ちなみに商品のタグはこんな感じ。

この百味ビーンズ、かなり気合を作って入れて作られているもののやるらしく、その価格もなかなかのものだ。正直に言って見た目ほどかわいい値段ではない。中におよそ100粒位だろうか、ゼリービーンズが入っているが、決して大きくないこのパッケージのお菓子としてはかなり高い部類に入るであろう1,800円と言う強気の価格が設定されている。

1,800円に何が含まれるかと言うと、これはおそらく輸入に係る費用がかかっているのだろう。つまり製造も開発も、これはアメリカで行われたお菓子で、いわゆる輸入菓子に入るものである。輸入菓子と言うと、特にアメリカのものに関して言えば色が派手なだけとかあるいはあまりなら甘いといったとても極端なお菓子を思い浮かべるだろう。そういう観点で言えば、この百味ビーンズも同様で消して繊細なお菓子ではない。

それでも百味ビーンズはすごい。どうすごいかというと、ハリーポッターの映画シリーズで登場した百味ビーンズが本当に存在するとしたら、たしかにこんな味なのだろうと思わせるその再現度がすごいのだ。言い換えれば、おいしい味はともかくとして、まずい味の再現度が恐ろしく高いのである。

ちなみに私はどちらかと言えばゲテモノ的な食べ物が得意だ。今までで食べたものでは、ワニだったり、カエルだったり、サメやウサギ、アヒルの腸、牛の脳みそ入りのマーボードーフなど、それなりにチャレンジをしてきた人間である。(とは言え美味しく調理され味も整えられたものであるので、味はもともと悪いものでは無い)こういったゲテモノを割と食べてきた私ではあるが、実はこの百味ビーンズを食べて飲み込めず結局吐き出してしまったものが何種類もあった。

不味くても食べられたもので言えば、石鹸の味。これは全く問題なかった。口に入れた途端口の中が泡だらけになったような錯覚を覚えるほど、その味は石鹸そのものという感じではあったがそれでもまぁ冗談として受け入れられるレベルの味であった。それ以外には、ミミズ味も食べてみたがこれも飲み込めた。私はまだミミズにチャレンジをした事は無いから、もしかしたらそれが理由かもしれないがミミズの味を連想させると言うより、ただ単にあまり味のないゼリービーンズだった。確かにそれほど美味しくはなかったけれども飲み込めないようなものではない。

さらに土の味、草の味のようなものも食べてみたが、これらも吐き出すほどのものではなく、かといって美味しくはもちろんないけどでも食べられないと言うのものでもなかった。

問題は、鼻くそ、耳くそ、ゲロの3つだ。この3つは正直手に負えなかった。

鼻くそ耳クソは何が問題だったかと言うと、その匂い。何とも言えないくさーい臭い。なんとかすれば飲み込めるかとしばらく口の中でもぐもぐやってみたが最後にはその嫌なニオイに負けてしまい、どちらも口から吐き出してしまった。

これらも当然しんどかったが、特に問題なのはゲロ味だ。

ゲロ味の1番の問題は、その酸味にある。臭いはともかく、酸味があるものはやはりとても飲み込みづらい。しかもこれが「ゲロ」の味であると言う認識が最初からある中で口の中に放り込んでいるので、これを咀嚼して飲み込むと言う事はとても勇気が入り体が受け付けなくなってしまった。なので鼻くそや耳くそはしばらく口の中で咀嚼していたら、ゲロは1口というか1回噛んだだけですぐにティッシュにぶっと吐き出してしまったのである。

この商品を試してみて思ったのが、アメリカ人が本気を出すとそれはほんとに怖いということ。特にエンターテイメントの部門で彼らが本気を出すと、そして彼らがその再現度真剣に取り組んだにするようになると、ほんとに恐ろしいものが出来上がるのかなと言うことが改めて思い知らされた。繊細なお菓子を作るのはきっと彼らも得意では無いだろうが、実が効かないぐらいに実を効かせたお菓子の製品を作らせると、なかなか日本人には太刀打ちできないのかもしれない。この商品を日本で作ろうとすると、「美味しくはないけれども食べて食べられなくは無い」と言うレベルを目指してしまうことにはなるのではないか。しかしアメリカ人は違った。というかUSJのアメリカチームは違った。ハリーポッターで出てくる百味ビーンズは、ゲロ味を初めてダンブルドア校長が食べてそのせいで100ミリインズが嫌いになるほどなるのだから確実にまずいはずである。それを中途半端の美味しさで出してしまうのは、英語に対して正直にものを作ってないと言うことになってしまう私それはお客様求めていないはずだ。というマーケティング行ったのであろう。結果として真剣にまずいあれは新規ますか作ると言う特別な食べ物ができてしまったのである。

この製品が実際にどういうもうどんな評価をすべきかと考えは、中高生向けのパーティー靴として考えるととても完成度が高く話題性も高く神力の高い製品であると言わざるを得ないであろう。私がもし中学生で誰かの見上げてこの102ビーンズをもらってクラスの友達と一緒に食べたとすれば、それは盛り上がる日がいない。美味しいのが食べたいし一方で変な味も食べてみたい、結果として恐れて逃げていろんな人と話になってするのられますはもっと楽しい事嬉しい。そういったことを考えれば100味ビーズはとても成功しよるものであろうと言う事は想像に難くない。

反対に、これはただのお菓子としてそして誰かに渡すお土産として考えたときに良い製品かと言われると、坂が首をかしげる部分もある。日私は家に子供がいるが、夫婦と子供3人でこの製品を食べる時って5歳の子供はまずい味を全て嫌がった。結局口にしたのは私だけ私以外の家族は誰もまずい味が口にしなかった。その結果おいしいマシュマロのようなゼリーりんごに行なったがその他の土屋草ミミズゲロ鼻くそといったネタ系のゼリービーンズは全く売れ行きが悪く、結局全て残ってしまったのだ。

他の製品でもあるしおそらくこのお土産くれた人は私たち喜ばせようと思って送ってくれたのではあろうが、結果として私たちはおいしいものが食べられたけれども半分に悪いもの食べなきゃければ中雨なければならなかったと言う思いが残ってしまったのである。お土産は楽しい気持ちだけなってもらえればいいもののはずで、それがいのまずかったとかあまり美味しくはなかったといった情報が必要なのではない。したがって単なるおいしいお菓子としてお土産を購入するのであればこの石は全くお勧めできないけど私も正直な考えである。

しかし反対にみんなで盛り上がるためにこの石の間であれば私は強くお勧めする。特に若い人たちにとってはこれほど面白いおもちゃはないだろう。

1,800円と言う後から気楽ではあるが、ちょっと楽しみたいと言う若者たちは強くお勧めしたい。でまた

プレゼンが上手くなる人、ならない人。その差はどこにあるか。

社内でプレゼンテーションをする人に、プレゼンの仕方についてアドバイスをする機会があった。アドバイスをした相手は二人。どちらも私より年上だ。二人は同じ場で、それぞれ異なるテーマで社内向けのプレゼンテーションをする。

二人ともプレゼンテーションの経験が多いわけではないらしく、そもそも作ってきた資料がかなりわかりにくいものだった。伝えたいメッセージはあるらしいのだが、おそらく本人の中で十分消化しきれていないのだろう。それが伝わってこない。

私の方が年齢が若いが、しかしプレゼンテーションを成功させ目的を達成することが大切なので、かなり大幅に資料への赤入れを行い、最終的には時間の都合もあるので構成の入れ替えをした。

プレゼンターの一人、Aさんとするが、Aさんは私の赤入れに素直に従った。特に反論するでもなく、はいわかりました、と私の修正を受け入れる。

もう一人のほう、 Bさんはと言うと、私の修正に1つ1つつっかかってくる。なかなか素直には聞き入れないが、私は私で自分の内容に自信を持って1つ1つ細かく意図を説明し、最後にはなんとか同意してもらえた。

こうして資料ができあがると、次はしゃべりの問題が出てくる。

数百人を前にしてプレゼンテーションをする機会が豊富にある人は少ない。AさんもBさんもそうで、かなり緊張しているようだった。私はプレゼンテーションを成功させるための一番の近道はとにかく練習することだと伝えた。

Aさんは、わかりました練習しておきますね、素直に受け入れた。

Bさんはというと、練習することには前向きだったが、どのようにやれば良いかわからないとのことだった。私は、プレゼンテーションの内容を見に染み込ませる必要があり、そのためには何度も実際に喋ってみたり、また恥ずかしくても録音や録画をしてみたりするのがよいと伝えた。さらに、たとえば今私の前でやってみてはどうですか、と投げかけてみた。Bさんは度胸があるのか、じゃあといってしゃべり始めた。

Bさんのプレゼンテーションのテーマは軽いものではなく、きちんと聞き手に理解してもらい、行動を促さなければならないような内容だったが、本人のパーソナリティがどちらかといえば軽い方のひとなので、その内容の重大性や緊急性が伝わらないしゃべり方になってしまっていた。

私は心を鬼にして、内容とトーンがあっていない、Bさんの性格とは合わないかもしれないがもっとシリアスな言葉遣いと声の調子で語っていただかないと、聞き手にはきっとメッセージが届かない、という主旨のことを伝えた。

Bさんはそれを聞いて、当然ながら不服そうであった。そして、では練習しておきますと一言言って、その日は終わり。

さて、土日を挟んで次の月曜日。プレゼンテーションの本番だ。

まずはAさんの番だ。Aさんは、プレゼンテーションの修正にも前向きであり、練習もしっかりすると言い放っていた。しかしプレゼンテーションはボロボロだ。ストーリーは道筋が通っているのに、言い間違えたり、項目を飛ばしてしまって後から戻ってきたり、そもそも緊張して落ち着きがなかったりして、練習をほとんどしていなかったことは明白だった。

続いてBさんだ。この人はもともと社内でも軽い雰囲気の持ち主として有名で、この人が壇上に立っただけで少し笑いが起こるくらい。しかも表情がかたい。すさまじく緊張している。これはBさんもダメかもしれない、そう覚悟したが、始まってみれば素晴らしいプレゼンテーションに仕上がっていた。この人が持つ独特のトーンはあるものの、テーマにあった雰囲気とスピードで進んでいく。内容を既に知っている私でも、その内容に引き込まれていくほどの出来栄えだ。誰の目にも、その人がきちんと準備をして、練習を重ねて、成功させるための努力を怠らなかったことは明らかだった。

そのプレゼンテーションの後、Bさんは会う人たいていの人から、あのプレゼンはよかった、と言われたのだという。

私自身、この経験から多くを学んだ。まずは姿勢。プレゼンテーションでもなんでも、それを通じて達成しなければならないことをしっかり意識して、そのために向かっていくこと。たとえばAさんは、資料に対する私からの赤入れに特に反対するでもなく、素直に受け止めていた。それは私の修正依頼がよかったからというわけではなくて、その人が資料に対して、もっといえばプレゼンテーションに対してそれを通じて何を達成したいと思うかを十分に認識していなかったせいだ。もし真剣に成功させたいという思いがあったとすれば、資料の作り方に対してと何か考えがあるはずであり、それを否定されると反発したり説明を求めたりするはずである。Aさんにはそれがなかった。
その点ではBさんは違っていた。指摘1つ1つに本人の意見を語り、私の意見に対する説明を求めた。それを納得するまで続けていた。そもそもの姿勢の部分が大きく違っていたことになる。

加えて、努力の跡が見えるか見えないか、が聞き手やその人を見る人の印象に大きく影響を与えることも身をもって体験できた。

Aさんは、もともとの評価が高い人ではなかった。プレゼンテーションもそこまで巧かったかと言われればそうではない。それにもかかわらず多くの人から高い評価を受けたのは、そこに努力の跡をはっきりと見たからだろう。何かを成し遂げようと考え、そのために必要な努力をすると、そのことをことさら強調せずとも周囲ににはそれが伝わる。反対に、しかるべき努力を怠れば、それだけの結果しかついてこない。

当たり前のことと言わず、成果を得るための努力をきちんとできることは、何をする上でも重要であると改めて気づかされた。

知っていそうでよく知らない、いろいろなマークを紹介。全部わかりますか?

世の中にはいろいろなマークがあります。交通標識やいろいろな製品の裏についている表示とか、それはそれはたくさんのマークが存在しています。

しかし中にはそれが何を意味するのか、わかっているようでわからないものも少なくありません。

たとえばこれはどうでしょうか。

R100

見たことありますよね!確かに見たことはあるんですが、これが何を意味するマークか、はっきり言えなくありまえんか?

これは何かと言いますと、R100マークと呼ばれるものです。

こちらのDTP・印刷用語集というサイトの解説によりますと

R100のマークとは、古紙パルプ配合率100%の用紙(再生紙)を使用していることを表すマーク

なのだそうです。

Recycle 100%のR100を模しているということですね。数字に横線が入っているのは紙を意味しているのでしょうか?この辺りは若干不明ではありますが、色が緑色だとなるほど緑を守るってことなのねとギリギリわかるかもしれません。

つづいてこちらはどうでしょう。

SGマーク

(画像検索結果へのリンクです。)

これも見たことありますね!確かに見たことはあるんですが、これもまた何を意味するのか、はっきりわからなくないですか?このマークは、SGマークと呼ばれるものです。

製品安全協会という団体がありまして、そちらが作ったマークのようです。協会の説明によりますと

SGSafe Goods (安全な製品)の頭文字を合わせたものです。SGマークは当協会が定めたSG基準への適合を当協会が認証したことを示しています。「安全な製品」の目安です。

とのことです。

なるほど、Safe GoodsのSGなのですね。昔のおもちゃ屋なんかにもこんなマークが付いていたように記憶しています。

上の二つはまだ見たことがあるものだからいいです。

では、こちらはどうでしょう。

ん?これは・・・見たことありそうでなさそうな・・・。蝶々がひらひら飛んでいるようですがなんだかよくわかりません。

これ、実は「聴覚障害者標識」というマークです。内閣府のサイトによりますと・・・

聴覚障害であることを理由に免許に条件を付されている方が運転する車に表示するマークで、マークの表示については、義務となっています。危険防止のためやむを得ない場合を除き、このマークを付けた車に幅寄せや割り込みを行った運転者は、道路交通法の規定により罰せられます。

とのこと。なるほど聴覚障害を持った方が車に貼るマークなのですね。

私は結構車に乗る方ですが、しかし道路では見かけたことがありませんでした。聴覚障害者の運転手が少ないのか、それともただ私の注意力が低いだけなのかはわかりません。

耳の形で、聴覚と蝶々の「ちょう」がかかっているのでしょうが、もう少しデザインを改善できないのかなあと思わなくもないですね。

続いてはこちらです。

これはなんとなくわかりますね。少なくとも東京ではこの1年ぐらいでかなり見かける回数が多くなりました。

このマークは「ヘルプマーク」と呼ばれるものです。

東京都福祉局のサイトによりますと、

義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、または妊娠初期の方など、外見から分からなくても援助や配慮を必要としている方々が、周囲の方に配慮を必要としていることを知らせることで、援助を得やすくなるよう、作成したマークです。

私が個人的にとても好きなマークです。まず背景にある理由にとても納得感がありますし、マークそのものもとても目立ちますので周囲の人が気付きやすいです。しかも意味合いもある程度わかりやすいものでありながら、デザインが洗練されています。

ヘルプマークに関しては、もっと普及して、多くの人がその意味合いを知るようになってくれるといいなと思います。


こうしてみると、マークにもいろいろありますし、見たことがあるものもあれば、あまり馴染みのないものもありますね。正直に言えば、そのマークが付いていてもいなくてもどっちでもいいようなものもありますが、例えばヘルプマークや聴覚障害者標識のようにもっともっと広がるといいなと思うものもたくさんありますので、また今度調べてみようと思います。

飲み会が苦手な人タイプとその言い分をグループ分けしてみました

飲み会が苦手な人っていますよね。みんな楽しそうに参加しますが、実を言うと決して心から好きなわけではないと感じている人が少なくありません。

飲み会嫌いにも何パターンかある

一口に飲み会が嫌いと言っても、みんなが同じように飲み会のことが嫌いなわけではありません。

そこにはいくつかのパターンがあるようです。

会社の飲み会が苦手(友達とならOK

まずあげられるのが「会社の飲み会だけが苦手」と言うタイプです。

たとえば上司と一緒に飲みに行くと、延々説教をされてしまうとか、あるいは上司を除いた同僚と飲みに言ったとしても会社や他の社員の悪口大会になってしまうので楽しめないといったタイプです。

確かに会社の飲み会は、会社での役割をそのまま引きずらざるを得ませんので、特に若い人たちは面倒に感じられるのかもしれません。

私も以前勤めていた会社に、若手を飲みに連れていくと絶対に朝まで返さないし、とんでもない量を飲ませられてしまうことで有名な人がいました。何人かは病院送りにされているほどです。

私はと言うと、その人の部下ではありませんでしたので、誘われても「今日はちょっと」の一点張りで逃げ続けたわけですが、私の同期でその人の部下だった二人の社員は、そろって病院行きでした。

こんな様子を見ていると、会社の飲み会が嫌いになってしまうのも分かりますね。

飲み会全般が苦手(お酒なしならOK

会社の飲み会だけが嫌いな人の中には、友達やもう少し仲の良い人との飲み会であれば楽しめるという人もいるでしょう。

しかしそれすらも楽しめず、飲み会の名のつくものは全て苦手だという人もこれまた少なくないです。

このタイプの人たちは、多くの場合そもそもお酒を飲むことが好きではないという人が多いです。もしくは、お酒が入った人と一緒にいることが辛いという人ですね。もっと言えばその合わせ技ということもあり得るかと思います。

私はこのタイプに入ります。

私はほとんど下戸なのでアルコールが入っても楽しい気分になれませんし、いい具合に酔っ払った人たちの間に入った時に、盛り上げることもできなければ自分が楽しくもなっていないので、エンターテイメントとして成り立ちません。

それでも1時間くらいで終わるのであればまだいいのです。しかし飲みに行けば最低でも二時間かかりますし、二次会や三次会となれば当然のように日をまたぐことになります。

少なくとも私の場合はコミュニケーションとるならお昼ご飯を食べればいいじゃない、と思っています。ランチであれば、短ければ30分、長くても一時間半くらいで終わります。平日ならアルコールも入りませんから酔っ払った人も出てきません。

しかし少し酔わなければ人は本音を吐かないと信じている人がたくさんいることもまた真実。ここがランチコミュニケーション派にとって苦しいところです。

飲み会でもランチ会でもコミュニケーションが苦手

飲み会嫌いにはさらにハードボイルドな人もいます。飲み会でもランチ会でも、とにかく全てのコミュニケーションが苦手というタイプです。

私はランチならOKではあるものの、行かなくていいならそれもまたよしなので、このタイプの人の気持ちもわかります。

このタイプは、アルコールが入っているかどうかということはそれほどまでには重要ではありません。兎にも角にも大人数でわいわいやることが好きではないということになります。

その一方で面白いのは、この手の人の中には一対一のコミュニケーションならなんとかなるという人が案外多いということです。二人きりで話をするぶんには特に問題がなくて、むしろ饒舌なのに、三人以上になると途端にめちゃめちゃ聞き役に徹し始めるというか、一言も発さなくなるような人です。

この手の人は飲み会に誘っても来ないことが多いですね。あー、私はこのタイプのほうがしっくりくるかなあ。

 

 

飲み会嫌いにもいろいろいますね。コミュニケーションのためには飲み会が一番という方もいらっしゃいますが、私は飲み会は断って自分の時間を作りたい人間です。

いい距離感で必要な程度のコミュニケーションは取りながらも、自分らしい人生を生きていきたいと思います。

カタンで遊んで発達障害傾向の5歳の息子に現れた変化(と2年後の今)

カタンの開拓者たち

2年前にこのエントリーを書いた。当時は相当に悩んでいたと思う。こだわりの強い子供とどうしたらうまく向き合えるか、どうしたら彼がより暮らしやすくなるか、そんなことをよく考えていた。今でももちろん同じことを考える。それでも時間が経ち彼も小学生になってふと最近の様子を思ってみると、この記事の頃と比べれば随分変わったと思う。

ゲームをする時の様子や、得意なこと不得意なことを見れば今も似たような傾向はある。しかしながら傾向があるだけで相当に改善されたと感じる。たとえば自分で何かを決めることは得意ではないが、しかしきちんと決断できることは増えてきた。機械への執着はあるが、それだけではなくて他のことにも関心をきちんと示したり集中できるようにもなった。順番を待つこともできるし、我慢してたとえばカードを貯めておいてここぞの場面で使うとか、そういうこともしっかりできる。大きく変わった。

ゲームの腕前もかなり上手くなってきた。カタン以外にもいくつかボードゲームを買って遊んでみたが、たとえばドミニオンあたりでは頻繁に負かされる。他人の様子を読んで自分の行動を変えたりとしっかり考えてやっている。嬉しくもあり、単純に悔しくもあったりする。

一方でテレビゲームはまだまだ苦手だ。特にアクションゲーム。これはまったく上手くならない。2Dマリオなどから始めさせてみようとしても、やりたくないと本気で嫌がる。この辺が難しいところだ。

いずれにせよ、子供はどんどん変わっていく。もちろん人によるので、うちの息子はそうだったというだけだし、他人から言われる「きっと大丈夫だよ」という無責任な言葉ほど腹立たしいものはないことは知っている。それでも、長い目で考えることは重要なのかもしれないと、そう考えた次第である。2019.5.23追記ここまで


歳になる息子がいます。彼はすこしこだわりが強かったり、時に癇癪を起こしたり、あるいは運動能力が若干低いのですが、一方で記憶力や思考力はある、という具合に成長に偏りがある子どもで、いわゆる発達障害の傾向がすこし見られる男の子です。

そんな息子と私たち両親とで遊ぶ時に、単に親が遊びたいからという理由で「カタンの開拓者たち」を取り入れました。

本当にただ楽しいからカタンで遊んでいただけなのですが、しばらく遊び続けているうちに、息子に良い変化が見られるようになってきました。それまで苦手でうまくできなかったことが、カタンを遊ぶ中で自然と身についたようなのです。

そこで、私たちがどのようにカタンで遊んだか、そして息子にどのような変化が見られたかについて、書き残しておきたいと思います。

そもそも「カタンの開拓者たち」とは?

ドイツ生まれのボードゲームです。ボードゲームというのは、人生ゲームやすごろくのように、サイコロやカードを使って数人で遊ぶアナログゲームのことです。

なかでも「カタンの開拓者たち」はボードゲームの名作と言われていて、発売されてから長年にわたってベストセラーになっていて、世界中で楽しまれているゲームです。

ルールをかいつまんで説明すると、「サイコロを振ってカードを集めて、集めたカードを使って陣地を広げていく」というものです。一見複雑ですが、一度遊んで見れば大人なら簡単に飲み込めるルールです。

5歳には早いかなあと思いながらも購入

さて、このカタンですが、誰が一番遊びたかったかというと、私です笑。 しかしなかなかカタンで遊ぶ機会がなかったので、子供が大きくなったら家族で遊ぼうと随分前から心に決めていたのでした。

息子が5歳になり、簡単なルールのトランプなら遊べるようになったので、ちょっと早いかもしれないと感じながらも思い切ってカタンを購入したが今年の話です。

息子の特徴

さて、うちの息子ですが、発達障害の傾向があると一口に言ってもいろいろなタイプがあります。ADHDと呼ばれるようなものやアスペルガー症候群のようなケースもありますが、うちの息子の場合はというとこんな感じです。

彼にとって難しいこと

気持ちの切り替え

何かに自分が取り組んでいる時、例えば終わりの時間が迫っていても、気持ちを切り替えてストップすることができない。

待つこと

自分の順番を待つことが難しい。誰かの後に自分の順番がくるということが分かりにくく、我慢がなかなかできない。

特定のことに執着しないこと

例えば自動販売機やトイレなど、特定のものに関心が強くその気持ちを抑えることが難しい。

自分で何かを決めること

たとえばおやつを家族で食べるとき、味が2種類から選べるとしても、自分で決断して選べない。

彼にとって簡単なこと

文字を読むこと

ひらがな、カタカナ、身近な漢字(雨、駅、道路、組などなど)、アルファベットは読めるし意味も分かる。

機械の操作をすること

テレビのメニューから字幕のオンオフ設定や、予約録画設定などはすぐに覚える。

日付を覚えること

何ヶ月も前に遊びにいった場所の話をすると、すぐに日付を言い当てる。

このような具合で、できることはかなりよくできる一方で、苦手なことはなかなかうまくいかないというタイプの子どもです。

カタンを取り入れて最初の1週間

カードを取る作業にこだわる

さて、カタンが我が家に届いて最初の日、一番ワクワクしていたのは私でした笑。でも息子も「カタンっていう新しいゲームやりたい?」と聞くと「やりたいっ!」といって、彼も上機嫌でゲームに乗ってきました。

カタンを遊ぶにあたって、まず息子が食いついたのは、「サイコロを振って出た目に合わせてカードを取る」という作業です。

カタンの一つの特徴は、自分が置いた陣地の種類によって異なるカードをそれぞれが山から採っていくことと、

自分がサイコロを振った時でなくてもカードを取れることです。そのため、頻繁にカードを取る作業が発生する上に、その都度異なるカードを取る必要があるので、案外忙しいのです。

息子はこの「カードを取る」という行為に大いにハマりました。あまりにも楽しいので、全員のカードを取って配る役目をやりたいと言い、一生懸命取り組んでいました。サイコロを誰かが振るたびに「木と、石と、麦がお母さんね!」と言いながらカードを取っては配るので、画像を認識したり手先を動かしたりするいい練習にもなったようです。

ちなみにカタンでは、6種類のカードを使いますが、そのうちの5種類は資源カードと言って、陣地を広げるために使用するものになっています。

  • 木材:深緑のカードです。我が家では「木」と呼んでいます。
  • 穀物:黄色のカードです。我が家では「小麦」と呼んでいます。
  • 羊皮:浅い緑のカードです。我が家では「羊」と呼んでいます。
  • 粘土:茶色のカードです。我が家では「レンガ」と呼んでいます。
  • 鉱石:灰色のカードです。我が家では「石」と呼んでいます。
カタンの開拓者たちのカード

5種類のパネルとカードがあります

これに加えて発展カードという特殊なカードを用いて遊びます。

写真の六角形のパネルがマップを構成していて、このマップの色とカードの色が対応しています。例えば深緑のパネルの陣地を持っていれば、同じ色の「木」のカードをとることになるのです。このようなルールが、息子の認識力の向上にも役立ったようにも感じます。

その一方で、問題になったのは息子の「自分がカードを取りたい」という思いが強すぎたことです。

本当に彼にとってカードを取って配ることが楽しかったのだと思いますが、同時に自分の役目だと思ってそれを手放したくなくなってしまったとも言えます。

そのため、やがて私が自分でカードを取ろうとすると癇癪を起こすようにもなりました。やりたいことをやれないことが全く我慢できない状態になり、ここからしばらくは抜け出せない状態が続きました。

「自分の番」や「カードが貯まる」のを待てない

また、始めてしばらくは、自分がサイコロを振る順番を待つのがかなり難しいようでした。

自分が一度サイコロを振ったら、次は自分ではないことは彼も分かっています。しかし3人で遊んでいるのであれば、自分が終わったら次の人がサイコロを振って、その次もまた自分の番に戻ってくるものと勘違いしてしまうのです。しかし3人目がいるので、息子の番ではないことを伝えると、その都度大きくがっかりして、深く嘆くのです。

サイコロをふる順番が分かっていないこともさることながら、自分がどんどんやりたいという気持ちを抑えるのが難しい様子でした。

また、カードが貯まるまで待つのも難しい様子でした。

カタンでは自分のやるべきことの見通しを立てて、その目的に合わせてカードを使わず貯めておかなければならない場面が必ずやってきます。これは大人でも判断が難しいことではあるのですが、息子にとってもやはり相当難しいことのようでした。

つまり、陣地を広げるためにとっておくべきカードを、どうしても我慢できずに別のことに使ってしまうのです。例えば石と小麦と羊に3枚で発展カードという特殊なカードに交換できるのですが、勝つためには我慢してこの先で必要になるカードを手元に置いておく必要があるのに、待つことができずに発展カードに交換してしまうのです。

その結果、陣地を広げることができずに後半で苦労していることがよくありました。

とにかく当初の息子にとっての大きな課題は「待てないし我慢できない」ことで、克服するのは簡単ではありませんでした。

自分で行動を決められない

自分で何かを決めることも、初めのうちは難しいようでした。

カタンは最初のターンでサイコロの目によって順番に陣地を選ぶところからゲームが始まります。

基本的にはどこでも陣地を選べるのですが、どうしても自分で選ばずに私たちに選んでほしいというのです。

それでは面白くないので頑張って自分で選ぶように言い聞かせますが、なかなか選べず、最後には癇癪を起こします。

思い切って決めてやってみる、ということができずに、本人も苦労していました。

また、陣地だけでなく赤、青、白、オレンジの4色の中から自分の駒の色を決める必要があるのですが、これもなかなか決められませんでした。最初に「僕は赤がいい」といったものの、私が「じゃあ青にする」というと、「やっぱり僕も青がいい!」となって、延々決められません。このようにあらゆる点で自分で決定することが難しいようでした。

そのくせ勝つことに異常なまでに執着する

これはどの子どもでも同じかもしれませんが、まだまだ難しいことがたくさんあるのに、尋常ではないほどに勝つことに執着するのです。大人に対して「手を抜いてでもいいから勝たせて欲しい」とお願いしてくるほどです。

我が家では夜寝る前にカタンで遊ぶことが多いので、カタンで負けてしまって癇癪を起こして彼が寝られなくなってしまってはたいへんです。ですから、最初のうちはわざと負けてやったりだとか、とても追いつけないようなハンデを大人が持つことによって、なんとかしのいでいました。

 

3ヶ月経った今の状態

さて、それから3ヶ月が経ちました。週に2回から3回程度、毎週息子と私たち夫婦と3人でカタンで遊んでいます。すると、冒頭でも書いたように少しずつ息子の様子が変わってきたのです。

執着心が落ち着いてきた

はじめのうちは、例えば「全員のカードを自分でとること」にこだわっていた息子ですが、最近では自分のカード以外は取らなくても気にしないようになってきました。私がサイコロを振って自分のカードは自分で取ったとしても、全く気にしません。それよりも、自分がどのように戦うかを一生懸命に考えるようになってきました。

また、勝ち負けにもまだまだこだわりますが、「勝つこともあれば負けることもある」ということがわかってきたようです。以前であれば、自分が負けるとものすごく落ち込んだり文句を言ったりと、なかなか気持ちを切り替えることができませんでしたが、そのようなことが明らかに減ってきたのです。今では「あーあ、負けちゃったよー」と残念がりますが、それでもぐっとこらえていられることがかなり増えてきています。

ゲームを通じて、運の要素もあるし、自分のやり方がうまければ勝てるし、反対に立ち回りが下手なら負けるということが少しずつ飲み込めてきたからなのではないかと思います。

自分のターンを待てる

順番の認識も今までよりもかなりはっきりと持てるようになりました。

自分の次はお父さんで、その次がお母さん。自分の番はその次だ、ということを明確に認識して、私たちがサイコロを振るのをしっかりと見て、その結果に合わせて自分がとるべきカードをとる。そして次の動きを考える、というようなことができるようになってきたのです。

カタンが、自分がサイコロを振ったとき以外にもすることがあるというゲームなので、その面でも良かったのかもしれません。例えば普通のすごろくなら、サイコロを振った人以外は待っているだけになってしまいます。

しかしカタンは自分以外がサイコロを振ってもカードを取れるので、待つことに対するハードルが下がるのだと思います。

カードを蓄えて、次の行動に活かせる

さらに、自分がこの先にしたいことのために、自分が持っているカードを使わずに蓄えておくことができるようになりました。たとえば陣地を広げることを目標としたときに、「あとは羊があれば開拓地が作れるから、いまは発展はやめておこう!」と言って、それを使わずに我慢できるのです。

最初の頃は石と小麦と羊のカードが揃ったら「発展カードを引く!」といってカードを引き、最終的にはどんどん勝利しにくくなってしまうというケースばかりだったのが、だんだん「今はこのカードは使わずに取っておこうっと」といって、しばらく待って必要なカードがたまるのを待てるようになってきたことは本当に大きな変化です。

自分なりに先を見通す努力をしながら、それに必要な状況が出来るのを待つ、というなかなか難しいことができるようになってきたことを意味します。それを見て、かなり嬉しく思いました。

自分で考えて行動を決められる

最近では、自分で考えて行動を決定することもできるようになってきました。

例えば最初の色決めもスムーズです。「前回は赤だったから、今回は青にする」とか、自分なりの理由を考えて、その理由に合わせて色を決めるようになりました。彼自身が納得できる理由を作って、行動を決定することができるようになったのです。折り合いをつけたり、理屈を作って行動を考えられるようになったことは、大きな成長です。

また、陣地決めも、より多くカードがもらえるエリアに陣地を優先的に作ったり、さらには特定のカードが出やすい陣地を取ったのでその条件を活用できるような交易エリアに二つ目の陣地をとる、といった戦術を考えながらの遊びもできるようになりました。

これは、私たち親の行動を見て真似ることでできるようになったのかもしれません。例えば前回のプレイで息子が負けて私が勝利したとすると、そのときの私の遊び方を思い出して、次回から同じような戦い方をする、というような工夫が見られたのです。

自分なりに過去の経験から学んで、その学びを基本にして自分の行動を決定するという行動ができるようになったことも、本当に大きな変化であり、私たちにとっては喜びでした。

カタンを通じての今後の彼の変化に期待

まだカタンを遊びに取り入れて3ヶ月ですが、このように息子が苦手だったことがカタンの中での話ですが、少しずつできるようになっていくのを見るのは、本当に嬉しいものでした。

うちの息子の場合は、ルールを覚えたり、複雑な機械の操作をしたりすることは得意だったので、カタンのようなボードゲームで遊ぶのがたまたまぴったりだったのかもしれません。

しかし似たような傾向のあるお子さんがいらっしゃる家庭では、カタンやその他のようなボードゲームを家庭での遊びを取り入れてみると、意外な収穫があるかもしれません。

これからもしばらく継続的にカタンで我が家でも遊んでみて、変化が見られたら更新したいと思います。